まなび場ブログ

若い人たちとの対話

違いが否定される、ということの居心地悪さ

 「理不尽な校則が不登校の原因になっていると感じる事はありますか」と聞かれたので、今までに僕が関わった不登校の人達のことを考えてみた。「制服を着たくないから学校に行きたくない」と言っていた人はいた。気持ちが不安定になってネックウォーマーで顔を隠さないと安心できなかった時に、ネックウォーマーの着用を認められなかったので登校できなかった人もいた。でも、彼らの不登校の原因が校則だったかといえば、それはちょっと違うだろう。

 

 彼らにとっては、服装のこと以前に、学校での人間関係が居心地悪かったように僕には見えた。そこでは、みんなに合わせなければならず、みんなと感じ方や行動が違うと周りの生徒達から否定的な目で見られる。そういうことが嫌だと感じている人は、みんなが同じ制服を着ることにも違和感があるだろう。また、そういう集団生活に強いストレスを感じていても、一人だけ特別扱いはできないという論理で、柔軟な対応をしてもらえない。そういうことの全体が、学校に行きづらい原因になっているのだ。

 

 校則についていえば、「私の中学校では、靴下の色は黒と白はいいけど灰色はダメなんですよ!」と教えてくれた人がいるが、子どもに納得できないルールも少なくない。別の若者は、「校則の中身に意味があるんじゃなくて、それを守らせることに意味があるんでしょ」と笑っていた。教師の決めたことに従う生徒にするために校則で縛っていると受け取っているわけだ。そこまで言わないとしても、子どもの身なりも先生の指導も一律に揃えようという発想は、“みんな同じであることが良い”というメッセージを子どもに対して発信していることにならないか。

 

 「先生には反発できるけど、生徒同士の人間関係は難しい」と言っていた若者がいたが、学校の管理よりも子ども同士の同調圧力の方がしんどいと感じている人は多い。ただ、子ども同士の人間関係は学校のあり方と無関係ではない。みんなと違うことを教師が否定的に見ていれば、それは子ども同士の人間関係にも影響する。理不尽な校則が原因で学校に行けない人もいるかもしれないし、理不尽な校則がなくても、自分のあり方を周りに合わせなければならない空気が苦痛で行けない人もいる。これらは別の問題ではなく、根っこは繋がっている。

 

 学校は多人数が一緒に過ごす場だから、人と折り合わなければならない事もある。でも、自分と人とは違っていいという感覚が欠けていると、相手を一方的にみんなに合わせさせようとしたり、みんなと違うところが目に付く人が否定されたりということが生じる。学校は、校則やルールで個人の違いを見えなくさせるのではなく、むしろ、もっとみんなの違いが見える場にしていく方が良いと思う。その上で、感覚や考え方の違いをすり合わせて互いに折り合える所を探していく作業が必要だし、それが教育なのではないか。