まなび場ブログ

若い人たちとの対話

関心を育てる

 子どもにできないことがあると、周りの大人は心配する。そして、できるようにしようとして働きかける。僕自身、数学を教えるとき、“できるようになること”を目指しがちだ。それは目標として分かりやすく、手応えも感じやすい。できると、子どもも嬉しい。次のステップに進むために、できておいた方がよいこともある。でも、できるようになることを目指すことには、様々な落とし穴がある。

 

 「勉強が嫌い」という中学生に「どうして?」と聞いてみると、「小さい間違いを注意されてばかりで嫌になった」と言う。ちゃんとできるようにならないと、と思って、大人は注意する。注意されてできるようになることもあるけれど、注意ばかりされて嫌になってしまうことも多い。苦手な子にとっては、できるようになることばかり追求されること自体が、苦痛でしかない。

 

 僕の個人的体験なのだが、自分はできていると思いこんでいたことが、後から振り返ってみると、本当には分かっていなかったということが色々とある。でも、要求されている線までできたことで満足してしまって、それ以上深く考えずに済ましていた。周りの大人も、深く問いかけてこなかった。“できる”という目に見えやすいことにばかりに意識が向いていると、その人がどのように感じ考えているのかという大切なことが見過ごされやすい。

 

 大人は、子どもが“できるようになること”だけでなく、いや、それ以上に、本人の“関心が育つこと”に意識を向けるべきだろう。できるようになることだけに意識が向いていると、本人の気持ちなど関係なく、ただ頑張ればよい、できさえすればよい、ということにもなりがちだ。一方、関心が育つというのは、「自分で考えたい」「自分でやりたい」「自分で感じたい」といった気持ちが強まっていくことだ。これは、外から力づくでぐいぐい押してもだめで、かといって、本人任せで放っておいていいということでもなく(それが必要なときもあるけれど)、本人が感じ考えていることと付き合いながら、大人と子どもで一緒に考えていくことなのだ。

 

  関心が育っていけば、自分の気持ちに動かされて取り組んでいくので、その人なりにできるようにもなっていくだろう。とはいえ、できるようにするための手段として関心を育てるわけではない。関心を持って生き生きと取り組めること、また、自分自身で感じ考えるようになっていくことが、何かができたということより、意味あることだったりするのだ。