まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「どうして学校に行けないの?」

 学校に行けなくなったことを「どうして?」と聞かれるのだけど本人もうまく答えられない、ということがある。

 

 話は全く別なのだが、何かができなくて「なんでできないの?」と問うたり問われたりした体験は多くの人にあるのではなかろうか。で、問われた側が考えてみて、できない理由を見つけて、できるようになりました、などということはあまりないだろう。例えばスポーツの苦手な人が「なんでできないの?」と聞かれても、不得意だからとしか答えようがない。これは問いの形をしているけれど、できないことを責めている言葉だと受けとる人が多いだろう。

 

 子どもが何かをできない理由をまわりの大人が考えてみて、ああ、ここでつまづいていたのか、とか、こういうやり方は本人に合っていなかった、とか気づくことがある。だから、「この子はどうしてできないのかな」と僕たち大人が考えること自体は自然なことだと思う。ただ、この問いは、“みんなできるはず”という思いが暗黙の前提になっている場合がある。できて当然という思いがあるから、「どうしてできないの?」と聞きたくなる。でも、僕たちができて当然と思っているとすると、それは、自分や自分のまわりの人間にはできたという狭い経験に基づいて考えているからだろう。今まで、それができない人と出会ってこなかった、あるいは出会っていたけど気づかなかっただけではないだろうか。現実には、どんなことでも、できる人とできない人がいる。より正確にいえば、小さなエネルギーでできる人と多大なエネルギーを要する人がいる。人には違いがあるのだ。

 

 さらに、“できるはず”のもっと根底には、“すべての人にとって、できる方がよい”という大前提もあるかもしれない。この大前提も一度疑ってみる必要はないだろうか。例えば、数学は“すべての人にとって、できる方がよい”と言えるだろうか。子どもが数学に関心を持てるように働きかけることは教師の責任だ。でも、どこまでできるようになるかは、その子どもの興味関心や特性によって違ってよいだろう。これは、どんな学業でもスポーツでもアートでも同じだろう。人によって、何に価値を感じるかは違う。できないことが、どこかその人の持ち味と繋がっていたりすることもある。でも、“すべての人にとって、できる方がよい”とまわりの人達が当たり前のように思い込んでいると、できないことは引け目になる。引け目は、ますますできなくさせていく要因にもなる。

 

 ここで、ようやく表題に戻る。学校に行けない子どもに「どうして?」と問うとき、その問いの前提はなんだろうか。一つには、学校には行けることが普通であって、行けないとしたら何か特別の事情があるはずだ、という思いがあるかもしれない。また、学校はすべての子どもにとって行った方が良い、という大前提もないだろうか。

 

 もちろん、学校に行けない特別な事情はあり得る。イジメやハラスメントなど、学校に普通にあってはならないとされている事態の場合である。しかし、そういうことがなくても学校に行きたくない子どもも少なくない。それは、今の学校の普通のあり方自体が子どもに無理を強いていることが関係しているかもしれない。「学校に行くと、自分が自分でなくなる」と言っていた中学生がいる。学校という場では、自分のペースや感じ方よりも集団に合わせることがどうしても優先される。そんなことをさほど気にしない子どももいるが、強い違和感を持つ子どももいるし、非常に強いストレスを受ける子どももいる。そういう子どもが、学校に行きたくないと思うことは不思議なことではない。そして、そういう子どもにとって、学校に行くことが一番いいことなのかを考える必要もある。

 

 学校に行けないとすると、何か特別な事情があるのでは、とか、その子どもに特別な問題があるのでは、とか考えているだけでは、見えてこないことがある。学校のあり方へも問いが向けられなければならないし、僕たちの思い込みを問い直してみることも求められる。