まなび場ブログ

若い人たちとの対話

子どもの考えを聞く

 「親は、私の考えをちゃんと聞かずに、自分の考えを押し付けてくる」と言う人がいた。そこで僕自身のことを振り返ってみたのだが、少し思い当たることがある。それは、こんなことだ。若い人の話を聞いているとき、僕から見て間違っていると思われる主張があると、そこで僕が口をはさむことがある。そこから議論が噛み合っていく場合もあるが、そこで口をつぐんでしまう人もいる。そして、口をつぐんでしまった人は、本当には納得していなかったように思えるのだ。

 

 子どもはまだ知識・経験・考えが発展途上だから、大人から教えなければならないことがあるし、それが“教育”だと考えられている。子どもだけでは気づきにくいことを大人が教えるという考え方自体は、ごく自然なものだ。それが自然なものだからこそ、大人が子どもに一方的に考えを押し付けていても、その問題に気づきにくい。

 

 大人が考えを押し付けるというのは、子どもの側からすれば、自分が尊重されていないと感じることであり、そこに不満を持つのは当然だ。だが、子どもが不満を持ったとしても、大人の考えを押し付けて良いと考える人もいる。ものごとがよく分かっていないから不満に思うだけだ、あるいは、自分一人で生きているのではないのだから我慢も覚えなければならない、というわけだ。大人の言うことを聞かせるべき場面はあると僕も思うのだが、そのことと子どもの考えをちゃんと聞くこととは矛盾しないのではないか。

 

 子どもは、僕たち大人が気づかないような本質をついた意見を言うこともある。一方、大人の目から見ると論理的でなかったり一面的だったりする意見も言う。子どもの話を聞くということは、それに同調するということとは違う。ていねいに話を聞いた上で、大人の意見もきちんと伝えればいい。ちゃんと聞いた上で伝えた方が、こちらの考えも相手にちゃんと伝わる。それに、子どもの話に矛盾がある場合には、大人が意見を言うまでもなく、誰かにきちんと意見を聞いてもらっている間に自分自身で矛盾点に気付くことも多い。人に話そうと努力する中でこそ、子どもの考えは整理されて深くなっていく。

 

 子どもの意見をきちんと聞くのは、子どもを理解するため、あるいは、僕たち大人が何かに気付くためだ。…いや、何かのために聞くのではなく、相手に関心を持つことが人として大切なだけか。そして、大人が関心を持って子どもの話を聞くことが、結果的に、子どもの中で自分なりの感じ方や考え方が育つのを助けるのだろう。子どもの内面を育てるという意味で、聞くというのは“教育”的な態度とも言える。この文章を書きながら、もっとちゃんと聞かねばと改めて考えている。