まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「何がしたいのか聞いて欲しかった」

 中3 の進路選択を機に、突然、身動きが取れなくなり、学校に通えなくなった人がいた。それまでは大人から言われた通りに生きてきて、はじめて、これから先のことを自分で選びなさいと言われ、どうしていいか分からず身動きがとれなくなったと本人は言う。この人に、「今まで親にどうして欲しかった?」と聞くと、「何がしたいのかを聞いて欲しかった」と言う。小さい時から少しずつ自分で考えて判断する力を育てて欲しかったということだ。

 

 僕自身、「自分は、子どもだった時、大人にどうして欲しかっただろうか」と考えることがある。子どもの頃の僕は、「ちゃんと自分で考えている」と思っていたのだが、この“自分の考え”というやつは、実は、まわりの大人の考え方を自分でも気づかないうちに取り込んだものだったりする。でも、そんなことに気づかず、僕は子ども時代をぼんやりと過ごしていた。「そう考えるのはどうして?」と深く問われることがあれば、もっと早く自分の内面を問い直すようになったと思う。大人は、子どもにもっと問いかけるべきではないか。

 

 問いかけても、子どもがすぐに自分自身の言葉で話せるとは限らない。

 ずいぶん前のことなのだが、学校に行けなくなった中学生に、そのきっかけを聞くと、「人間関係がうまくいかなくなったので」と言う。彼女はほぼ毎日「まなび場」に通ってきて、そう深刻な話をするでもなく、のんびり過ごしていた。何ヶ月か通ってきたある日、僕といつものように雑談しているときに、学校に行けなくなったのはイジメのためだったことを初めて話してくれた。

 

 個人の内面にかかわる話ができるようになるには、それなりの信頼関係も必要だろうし、本人が自分自身を見つめてそれを言語化する力が育っていることも求められる。日常生活の中で、なんでもないような当たり前の時間を一緒に過ごしたり、自然に言葉を交わしたり、といったことが積み重ねられた上でなければ出てこない言葉もある。それに、時間の経過の中で子どもの考えも変化していく。

 問いを投げかけることによって、相手が自分で考え始めることに意味がある。相手に問いかけつつ、答えをすぐに返してもらうことを求めるというよりは、時間をかけて一緒に考えていくことが大切だろう。