高校の数学教員だった時、「数学は何のために勉強するんですか」と生徒から聞かれると、僕はどう答えていたか。
まず、「筋道たてて考える力が身につく」。でも、筋道たてて考える力は、例えば、将棋や囲碁でも十分鍛えられるのではないだろうか。むしろ、多くの数学授業では、生徒が自分の頭でじっくり考える余裕がないまま教師がどんどん教えている面があるし、考えるというよりは解き方を覚えて何とかテストをクリアしている生徒もいるのだから、学校の数学については、この説明には疑わしいところもある。
「ものの見え方、考え方が広がる」。ものごとがどう変化しているか、式やグラフの形で具体的にイメージできるようになる。この世界にどんな法則性があるかも、数学の力を借りて考えることができる。しかし、そういうことに今は興味がないという人もいる。
結局、「どんなことでも、それが面白いと思えたら、取り組む意味あるよね。サッカーだって、音楽だって、興味があるからやる。数学だって同じ」という話になる。自分が関心を持てるものを見つけるために、いろんな勉強を一通りやってみるといい。
さて、一通りやってみたけど、やはり数学には関心が持てないと思っている人もいる。そういう人には、「数学は、(進級•進学に必要な)最小限の勉強でもいい。関心を持てることに時間とエネルギーを注ぐことが大切」と伝えてもいいと思う。でも、当時の僕は、そこまではっきりとは言わず、「もう少しやってみたら、面白さがわかってくるかもしれないよ」と、紋切り型のことを言ったりもした。生徒のことを深く考えて言ったというよりも、生徒の数学の成績を伸ばすことに気持ちがとらわれてそう言った面もある。本当はこういうとらわれは不必要だったと、今では考えている。教師としては、教科の論理や面白さをきちんと伝える役割がある。でも、それ以前に、子どもと関わる大人として、嘘やごまかしなく話し合うことに努めなければならない。現実を自分の目で見つめたことを大人が話してこそ、子どもも自分の頭できちんと考えようとするのだから。
勉強する意味については、多くの子どもが疑問を持っている。いい成績を取って欲しいという大人の思いから子どもを何とか勉強させようと言いくるめるのではなく、大人と子どもがゼロから一緒に考えてみればよい。それは、子ども時代の貴重な時間とエネルギーをどのように使うかを子ども自身が考えることにつながる。