まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「興味はあるけど、関心がない」

 ある人が、こんなことを話してくれた。

「人間関係に、興味はあるけど、関心がないんです」

「小説は読んでいます。小説は、人間関係について書かれている訳だから、自分は人間関係に興味を持っているんだと思います。でも、自分自身が人と関わろう、という意欲がないんです」

 

 僕は“興味”と“関心”との違いについて深く考えたことがなかったが、この人は、頭の中だけでのことを“興味”という言葉で表現し、自分がそこに関わろうとする気持ちを “関心”と言っているようだ。そのように言葉を区別してみると、「興味はあるけれど、関心がない」ということは、僕たちの周りにたくさんあるのではないか。

 

 昨年末、グレタ・トゥンベリさんが科学誌ネイチャー「今年の10人」に選ばれた。選出理由は、地球温暖化について「科学者たちは数十年間も警告を発してきたが、トゥンベリさんが今年したような世界的な注目を集めることはできなかった」というもの。僕もそうだが、地球温暖化に興味を持っても、グレタさんほど切実に自分の問題として関心を持たない人が多かったということか。

 

 では、関心はどうやって育つのだろうか。僕自身のことを言うと、高校時代までは教育に全く関心がなかったのだが、学生時代に家庭教師として子どもと関わったことがきっかけで関心を持ち始めた。そして、仕事で子ども・若者達と関わるにつれて、関心は深まっていった。誰でも、自分の関心について振り返ってみると、出発点には誰かとの関わりがあったのではなかろうか。人との関わりが関心につながり、関わり→関心→関わり…という循環の中で、関心は育っていくと思うのだ。

 

 けれど、最初の関わりがないと、関わらない→関心が育たない→関わらない…という悪循環になっていくかもしれない。最初の関わりの機会とどう出会うかは、人によって違うし、偶然の出来事ということも多いだろう。とはいえ、ただ待っていてもそれはやってこない。いろいろな事や人と出会う可能性が高い場に身をおくことも大切だろう。

 

 教育というのは、“関心”(人や社会や文化と関わりたいという気持ち)を育んでいくことではないか。何かに強く関心を持っている人との関わりは、関心が育つ大きなきっかけになる。子ども同士が深く関わり合える環境も作る必要があるし、僕たち大人が人や事柄にどれだけ関心を持っているかも問われている、と改めて思う。