まなび場ブログ

若い人たちとの対話

相手の世界に付き合ってみる

自分がめくったカードに書かれたお題についてヒントを出して、お題は何なのかを当ててもらうゲームがある。ヒントを出す側も当てる側も、知恵を絞ることを楽しむゲームだ。

 

ところが、ある子ども達は、繰り返し遊ぶうちに、そのお題が出たときの合図(合言葉や手振りなど)を仲間内であらかじめ決めておいて、合図にどれだけ早く反応できるかを競って面白がっている。これでは、説明を工夫するという本来の面白さがなくなる上、合図を知っている人しか参加できなくなってしまう。こういうやり方はつまらないと思う人もいるし、僕も、オイオイ、なんか違うんでは、と言ったりもした。

 

でも、この方法で楽しく遊んでいる子達に付き合っているうちに、まあ、これはこれでアリか、という気持ちも生まれてきた。百人一首だって、こういう遊び方だし。

 

多くの人は、定められた遊び方の中で工夫したり努力したりする中に楽しみを見出していく。そして、決められていることを守らない人がいると、みんなが楽しめなくなると考える。でも、与えられた遊び方では楽しくないと感じる人もいる。何を楽しいと感じるかは人によって違うのだ。それに、不公平を生まないためにルールがあるといわれるが、ルールに従っていれば誰にでも公平に勝てるチャンスがあるわけではない。そう考えると、ルールを自分に都合良い方向にずらそうとすることに、そんなに目くじらを立てることもないという気になる。子どもの勝手な遊び方は否定せず、でも、こちらはこちらが正しいと思う遊び方をしていればよいのだ。すると、子どもも遊び方を少しこちらに寄せてくることもある。

 

ゲームに限った話ではない。当然こうすべきと僕たち大人が思っていることをやらない子どもがいる。そんなとき僕たちは、自分の常識に従って相手を批判したり、こちらの世界に相手をなんとか引っ張ってこようとする。でも、そういう態度では相手との接点がなかなか見えてこない。

 

だったら、自分の世界に固執せず、とりあえず、相手の世界と付き合ってみるのがよいかもしれない。相手の態度を外から眺めているのではなく、何かを一緒にやっているときに、ふと、相手の言動がちょっと了解できたという感覚が生じるときがある。そういう感覚を持って付き合っていると、相手の側にも、自身の言動を振り返るゆとりが生まれるときがあるようだ。

間違うから、面白くなる

まなび場で、高校生が中学生に勉強を教えていた。僕は、その雰囲気がいいなあと思ったのだが、高校生は間違ったことを教えていた。で、僕は、「それ、違うよ」と口を挟んだ。その後、その高校生は勉強を教えなくなってしまった。

 

一つくらい間違ったことを教わっても、どこかで修正することができる。そんなことより、教え合うとか一緒に考えることを楽しむ空気を大切にすることを優先すべきだったな、と反省させられた。

 

勉強を忌み嫌う子どもがいる。人によって興味の持ち方は違うし、学校の勉強にはつまらない内容も多い、と僕も思う。でも、すべてがつまらないという感じ方については、どうしてだろう、と考えさせられる。もしかすると、分からなかったり間違ったりしたときのまわりの反応も関係しているのではないか。

 

“正解”を出すと褒め、間違うとダメ出しする。大人はこうやって、子どもを“正解”に導いていこうとするのだが、いつもダメ出しされ続けた結果、嫌になってしまったのではないのか。では、どうすればよいのだろう。

 

スモールステップに分けて、小さな成功体験を積み重ねるとよい、という考え方がある。あるいは、努力自体を評価すればよい、という人もいるだろう。うん、それもそうかもしれない。が、何か違うような気もする。“正しい”方向にまっすぐ向かっていく、という以外の視点が欠けているように思うのだ。

 

子どもが間違ったとき、なぜ間違ったかを吟味することで、ことがらに対する理解が深まる。間違うことなく一直線に出された“正解”はのっぺりしていて、試行錯誤を経てたどり着いた理解のような深さがない。それに、“間違い”の中には、“正解”を知っている人が思いもよらなかった発想が含まれていることもあり、それを味わったり面白がったり、その発想から何が生まれるかを深掘りしてみたりすることもできる。間違うというのはダメなことではなく、むしろ、間違う人がいることで、面白くなる。そのことをみんなが感じていれば、間違うことを恐れることもないし、できないからやりたくないと思う人も減るのではないだろうか。

 

はじめにあげた高校生への僕の対応だが、「それ、違うよ」ではなく、「もうちょっと詳しく説明してあげたら」などと反応して、その説明の中身を一緒に吟味できると良かったかもしれない。そうすれば、中学生も、先生から正しいことだけ教わるより面白いと感じたのではなかろうか。

人とぶつかり合える場

「学校に行かないことで学べたことは?」と人から聞かれたとき、「まなび場(*注)で、人とぶつかっても、話し合って、仲直りしていったことかな。学校では、そういうことがなくて、関係が切れてしまったから」と、卒業生が答えていた。そういえば、先日、「人を理解するには何が大切か」というテーマで話し合っていたとき、ある中学生は「喧嘩すること」と言っていた。この人も、ここで、そうやって関係を作ってきたのだった。

 

この人達が言っているぶつかり合いや喧嘩というのは、個人と個人だけでなく、個人と周囲との衝突をも指している。周囲が考える“こうすべき”に反する態度をとった人が周囲と衝突し、シビアな話し合いになることがよくあったのだ。

 

いろんな方向を向いた人が一緒に過ごしていれば、互いに気に入らないことだってある。それを言い合うことで、はじめて、自分や他人のことが少し見えてきたりもする。でも、多くの場合、学校では、自分達の“こうすべき”が通じない人とは関わり合うこと自体が避けられてしまって、考えをぶつけ合ったりはしない。みんなに合わせない人が学校に来なくなって教室に居なかったりもする。まわりに合わせて自分の本当の気持ちを抑えてしまっている人も少なくない。学校の中では、個人と周囲が真剣に向き合って話し合うということが起こりにくくなっているのではないか。

 

いつでも人がぶつかり合っているのも疲れるけれど、違和感があっても言うことを避けている場というのも風通しが悪い。言い合っているうちに、相手に何かが通じるということもあるし、自分の感じ方が修正されることもある。喧嘩のようになってしまっても関係は修復できるという体験も、人間関係を築いていく自信になる。教育の場は、時々はみんなの中でぶつかり合いが生じているくらいがよいと思う。

 

*注:私は「まなび場」というフリースクールを運営している。

自分を振り返るゆとり

 子どもは、どんなときに変化していくだろう。

 

 子どもたちが一緒に過ごす場では、時として、子ども同士のぶつかりあいが生じる。例えば、周りの人の目には“自己中心的”としか見えない態度を取る人がいると、周りはイライラし始める。こういう状況でみんながその人を批判しても、相手は聞く耳を持たない。自分を守ることで必死で、自分を振り返るゆとりがないのだ。

 

 批判している側に、「自分にもそんなときがあったな」とか「批判の仕方には問題はないのか」というような自分達を振り返る視点があるときや、「この人にも一理はあるか」とか「どこか憎めないな」といった肯定的な気持ちが働いているときには、空気が少し変わる。あるいは、子どもの中にはバランス感覚の良い人がいるもので、場が緊張したときに突然脱線してみんなを笑わせたりして、冷静さを取り戻させてくれることもある。こんなときには、批判されている人にも自分を振り返るゆとりが生じる。人の言動を率直に批判する人もいて、同時に、適度にユルい空気がある場で、子どもは自分を見つめ直していくことができる。

 

 大人と子どもとの関係にも、似たようなことがある。大人としては、子どもに改めて欲しいと思うこともある。それは、例えば、1日中スマホを見ているというようなことかもしれないし、まあ、子どもによっていろんなことがあるだろう。でも、子どもは、僕たち大人とは全く違ったことを感じているかもしれないので、大人の一方的な批判を受け止められないことも多い。かといって、大人に対抗できるだけの論理も持ち合わせていないから、本心は納得していないけれどその場だけ聞いたふりをしたり、そうでなければ、反発して全く聞かなかったりする。子どもはどうせ聞かないのだから言うだけ無駄という考え方もある。確かに子どもが自分で気づくしかないことはあるが、大人がちゃんと伝えなければ、子どもが自分自身を振り返る機会のひとつが奪われることもある。

 

 僕たち大人が、子どものあり方を問題と感じる視点だけでなく、そういう感じ方は本当に正しいのかと自分を疑う視点もが持てているとき、また、子どもの中に自分にはない面白さや個性のあり方を感じているときには、率直なことを言えるし、伝わるということも感じる。子どもに対する批判的な視点しか持てないときには、一方的な言い方になってしまったり、逆に、穏やかに話し合える自信が持てないから、思ったことを率直に言うことにためらいが生じたりする。

 

 子どもとシビアな話し合いになって、「僕の対応はあれで良かったのだろうか」「ちょっと言いすぎたかな」と後から気をもむようなときがある。でも、蓋を開けてみると、子どもはちゃんと自分自身を振り返っていて、ほっとさせられたりするのだ。話し合っていた時にはあんなに抵抗していたのに、何が変化をもたらしたのだろうか。もしかすると、僕が気をもんでいたことも影響したのかもしれない。いずれにせよ、率直に話し合ったことは良かったのだろう。

「苦手なことは、やる意味がない」?

 “勉強”と名のつくものはことごとく忌み嫌う中学生がいて、「やってもできないから、やるのはムダ」と言う。これを聞いて、僕はある人のことを思い出した。

 

 その人は、僕が何かを説明していたとき、話を聞く気がなく、全く違うことを考えている様子だった。「聞いてますか?」と注意を促すと、「私は、話されたことを耳で聞いて理解するのは苦手だって言われていますから」と言う。私に聞かせようとしてもムダですよ、といった口調なのだ。確かに、その人は心理検査を受けた際に「耳で聞いて理解するのは苦手なので、目で見て理解する工夫を」というようなコメントをもらっていた。でも、僕には、この人ならこの説明は聞いて理解できるだろうという感触があったから、「まあ、これは聞けば分かることだから、ちゃんと聞いてみて」と言って話を聞いて理解してもらった。この時僕が感じたのは、聞くことは苦手という思い込みが、聞くことを一層苦手にしているのではないか、ということだ。

 

 勉強を苦手だと思っている子どもは少なくない。彼らは、なぜ苦手だと思うようになったのだろうか。子どもによって、興味・関心の持ち方も、同じことを考えたり理解したりするのに要する時間も、大きく異なる。でも、学校では、クラス全員同じ一定のペースで授業を進めていくから、そのペースに合わない子たちが必ず存在する。そういう子の中に、苦手意識が生まれてくる。でも、もっとその子の状態にあった学習の内容とペースだったら、他の子よりはゆっくりだったとしても、その子なりにもっと関心を持てたり理解できたりすることがあったかもしれない。人と比べて考えたり理解したりするペースが遅いからといって、「できない」と決めつける必要はないし、「やるのはムダ」ということもない。

 

 例えば数学を学ぶということをとってみると、そこには、筋道立てて考える、直感的に見通しをたてる、決められた手順通りに進める、ものごとを数量的にとらえる、柔軟に発想する、何かを感じる、意識を集中する、…といった様々な体験がある。それらの体験を積み重ねることは、苦手かどうかとは関わりなく、生きていく上で意味のあることだ。もちろん、僕たちが使える時間とエネルギーは限られているのだから、それを関心を持てないことや苦手と感じることに注ぐより、自分が関心を持てることや得意と感じることに注ぐ方が、本人にとっても社会にとってもプラスだろうし、苦手をうまく避けて生きていくことはできる。ただ、「どうせ自分にはできないから、やらない」とあまりにも早く決めつけてしまうと、世界が狭くなってしまう。考えてみると、子どもがそのように決めつけてしまうのは、僕たち大人の態度とも関係があるだろう。この子はこれは苦手なんだな(あっちの方が、この子に合っているかもしれないな)と大人が“善意”で考えたことが、自分にはこれをやる意味がない、という子どもの思い込みを強化してこなかったろうか。苦手ということを、本人だけでなく、僕たちまわりの大人も、その人がどうすればその世界と触れることができるのかを本気で考えない言い訳にしてこなかっただろうか。

 

 「やれば、できる」みたいなことを安易に言う人もいる。これが、「みんなと同じようにやれば、みんなと同じようにできる」という意味なら、全く子どもの現実からかけ離れた言葉だ。そうではなく、「その人にあったやり方とペースでやれば、その人なりにできる」ということは言えるだろう。できる・できないは、スパッと二つに分かれているわけじゃなく、誰だってある程度まではできて、ある程度以上はできない。その“ある程度”には非常に大きな個人差があるけれど、0か100かではない。自分はゼロだと思ってしまう人は、何事につけそういう考え方をしやすい人なのか、あるいは、自信を失わされる体験があったのか。

 

 なぜやってみないのか、いろいろ考えてみたけれど、実は、もっと単純に、今関心を持てないことはやらない、気持ちと一致しないことはしない、というだけのことかもしれない。もともと子どもとは、そういう存在だったのかな、と思ったりもする。

“穴を埋めたくなる習性”?

 高校で数学を教えていた頃、職員室の雑談で、「ノートで問題を解こうとしない生徒でも、穴埋め問題のプリントを配ると一生懸命やり始めるね」「彼らには、穴があったら埋めたくなる、という習性があるんですよ」と言って面白がっている人がいた。

 僕も、これは“彼ら”(生徒たち)のちょっと不思議な習性だと思った。こういう態度が僕たち自身の中にも染み付いていると思うようになったのは、ずいぶん後になってからだった。

 

 どこから手をつけていいか分からなくて、やる気が出ない。道筋が見えていても、ゴールが遠すぎて、やる気になれない。そんな時に、ヒントが与えられたり、手が届きそうなところにゴールが見えたりすると、やってみようと思える。穴埋め問題は、そういうものだろう。

 ただ、何も手がかりがない中であれやこれや考えてみるとか、試行錯誤してみる、といったことには意味がある。そこには、自分で考える面白さ、“やらされている”のではなく“自分がやっている”という実感、発見できたときの喜び、自分で考えれば何かが見えてくるはずだという感覚、といったものが伴う。穴埋め問題は、こういうものをすっ飛ばして、考える道筋を誘導し過ぎるかもしれない。

 

 “穴を埋めたくなる習性“の話に戻る。白紙の状態から自分で考えるのではなく、誘導された考え方にそって空欄を埋めていく子どもの姿。何をどのように取り組むかをゼロから自分で考えるのではなく、やるべきとされていることを一つずつこなしていく僕たち大人の姿。僕にはこの二つのイメージが重なるのだ。常識とされているのに自分はまだ知らないこと、出来て当然と思われているのに出来ていないあれやこれや…。僕たちは、まだ埋まっていない穴の存在に追われて、強迫的にそれを埋めていこうとする。そして、目の前の穴を一つずつ埋めて、あれをやった、これもやった、と小さな安心を得ていないか。

 

 こうやって、課題をこなしていくことで、個人の生活や社会がまわっているという面はあるだろう。でも、結果として、誰からも要求されないけれど自分自身が意味を感じること、また、自分でゼロから考ないといけないようなことを、後回しにしたり、中途半端なままにしてしまうことがなかったろうか。

 

 やるべきことが決まっているという枠組みの中では、まだやれていない穴ばかりが意識される。自分には埋められていない穴がたくさんあると感じて自信が持てない人もいるだろうし、穴を埋めることにとらわれて自分が本当は何をやりたいのかを曖昧にしている人もいるだろう。自分の中にもある”穴を埋めたくなる習性“にとらわれ過ぎないようにしたいし、それを利用して人を追い立てる社会も、それを強化している教育も、このままでよいとは思えない。

「やりたくない」気持ち

 「やるべき」と大人が考えていることを、それは例えば勉強することなどだが、子どもはやりたくない。こんなとき、子どもは、「やりたくない」という気持ちに負けてはダメだと言われる。本人の気持ちがどうであれ、やらないといけない。「やるべき」というのは、“みんな”が言っていることなのだから。

 

 やりたくない勉強を嫌々やっている子を見ていると、ほとんど考えることなく、機械的に暗記していたりする。形だけやっているので、身につくことも少ない。型から入って分かっていくことも勿論あるけれど、勉強をますます嫌いになっていくことも多い。人と一緒に何かに取り組むということが嫌という子どももいる。そういう子どもに無理やり人と関わらせるとどうだろうか。慣れていく中で人間関係がよくなっていく可能性もあるけれど、嫌な思いを積み重ねれば、人間関係がますます嫌いになっていくのではないか。気持ちに反してやっても逆効果なこともあるのだ。

 

 「やりたくない」と子どもが言っても、みんながやっているのだから頑張れるはずと言われる。でも、ある人にはすぐに出来ることが別の人には膨大なエネルギーが必要だったりする。これは、必要な努力の量が人によって違う、というふうに単純に量的な違いとしてとらえられがちだ。でも、それだけではない。ある人にとっては、それがその人を生き生きとさせてくれるものであり、別の人にとっては自分のエネルギーを削り取られることだったりする。同じことをやっていても、その人にとっての意味は全く異なっているかもしれない。

 

 僕たち大人は、子どもが“何をやっているか”“何ができるか”を気にかける。一方、“どんな気持ちか”を分かろうとしてきただろうか。子どもの気持ちについては、それをどう抑えるか、という風に考えてはこなかったか。さて、僕たち自身は、自分の気持ちと関係なく人から言われたことをやれる人間になりたいだろうか。そうではなく、人から言われなくても、あるいは、やるなと言われても、自分が本当にやりたいから、自分がやるべきだと思うから、自分の強い気持ちに従って取り組んでいく人間になりたいと思うのではないか。僕たち大人だって、自分の気持ちと行動がいつでも一致しているわけではない。だとしても、どうすれば少しでも気持ちと行動とが噛み合うかを考え続ける。こういうことは、子どもの頃からきちんと考える習慣を身につけた方がよいと思う。

 

 子どもが「やりたくない」ことはやらなくてもよい、というふうな単純なことを言いたいわけではない。「やりたくない」という気持ちの中身について、一緒に考えてみなくては、と僕は思っている。話し合ってみると、「やりたくない」中身はいろいろだ。人と比べられて嫌な思いをしてきた子もいる。他にやりたいことがあるため、大人から言われる「やるべきこと」に意味が感じられない子もいる。「やるべき」とされることとの最初の出会いが悪かったため、食わず嫌いになっていることもある。それが本当に苦手という子もいる。やりたくないという感覚が真っ当だと納得させられることもある。「やりたくない」の中身によっては、やらない方がよいことだってあるし、まず先にやっておくべきことがあることもある。やり方を工夫すればよいことだってある。あるいは、考えていく中で本人の気持ちの方が変化していくこともある。その子の個性にあった、したがって、その子にとって本当に「やるべき」、他のことが見えてくることもある。

 

 子どもの気持ちを単に我慢すべきものととらえるのではなく、気持ちの中身について子どもと大人が一緒に考えてみることが大切だ。考え方や気持ちの溝がなくならなくても、大人にとっても子どもにとっても、自分や相手の気持ちの奥にあるものに気づいていくこと自体に意味があると思う。