自分がめくったカードに書かれたお題についてヒントを出して、お題は何なのかを当ててもらうゲームがある。ヒントを出す側も当てる側も、知恵を絞ることを楽しむゲームだ。
ところが、ある子ども達は、繰り返し遊ぶうちに、そのお題が出たときの合図(合言葉や手振りなど)を仲間内であらかじめ決めておいて、合図にどれだけ早く反応できるかを競って面白がっている。これでは、説明を工夫するという本来の面白さがなくなる上、合図を知っている人しか参加できなくなってしまう。こういうやり方はつまらないと思う人もいるし、僕も、オイオイ、なんか違うんでは、と言ったりもした。
でも、この方法で楽しく遊んでいる子達に付き合っているうちに、まあ、これはこれでアリか、という気持ちも生まれてきた。百人一首だって、こういう遊び方だし。
多くの人は、定められた遊び方の中で工夫したり努力したりする中に楽しみを見出していく。そして、決められていることを守らない人がいると、みんなが楽しめなくなると考える。でも、与えられた遊び方では楽しくないと感じる人もいる。何を楽しいと感じるかは人によって違うのだ。それに、不公平を生まないためにルールがあるといわれるが、ルールに従っていれば誰にでも公平に勝てるチャンスがあるわけではない。そう考えると、ルールを自分に都合良い方向にずらそうとすることに、そんなに目くじらを立てることもないという気になる。子どもの勝手な遊び方は否定せず、でも、こちらはこちらが正しいと思う遊び方をしていればよいのだ。すると、子どもも遊び方を少しこちらに寄せてくることもある。
ゲームに限った話ではない。当然こうすべきと僕たち大人が思っていることをやらない子どもがいる。そんなとき僕たちは、自分の常識に従って相手を批判したり、こちらの世界に相手をなんとか引っ張ってこようとする。でも、そういう態度では相手との接点がなかなか見えてこない。
だったら、自分の世界に固執せず、とりあえず、相手の世界と付き合ってみるのがよいかもしれない。相手の態度を外から眺めているのではなく、何かを一緒にやっているときに、ふと、相手の言動がちょっと了解できたという感覚が生じるときがある。そういう感覚を持って付き合っていると、相手の側にも、自身の言動を振り返るゆとりが生まれるときがあるようだ。