まなび場ブログ

若い人たちとの対話

具体的イメージが欠けた式や言葉が溢れ過ぎている

いろんな子ども達とつきあっていて、どうしてこの人は学ぶことをこんなに嫌がるんだろう、と考えさせられることがある。その一つの背景に、具体的イメージを伴わないまま、抽象的な公式や用語をどんどん教わった体験があるように僕には思えてならない。

 

例えば、6÷1/2 =12を学ぶとき、その具体的意味も分からないまま、約束事として覚えさせられると、算数は何をやっているかよくわからん、自分には縁遠いもの、と思う子がいても不思議ではない。本当は、公式を学ぶ前に、6枚のピザを半分(1/2)ずつ分けると何人に配れるか、といった具体的な状況をイメージすることにもっと時間をかけるべきだろう。

 

中高生に学校のテスト問題を見せてもらうことがあるのだが、用語の穴埋め問題が多いのに驚く。子どもが一生懸命用語を暗記しているので、用語の意味を聞いてみると、「意味なんか考えている暇はありません」と言う。あるいは、数学の公式をきちんと覚えて問題を解いているのだが、どうしてその公式が成り立つかを考えたことすらなかったりする。

 

その具体的内容はイメージできないのだが、式や言葉は知っていて使える。こういうことを積み重ねていると、どうなるか。学ぶことに興味を持てなくなっていくというだけではない。言葉の意味を深く考えず、雰囲気で言葉を使う態度を育てていくのではないか。

 

教育の世界では、“主体性”という言葉が好まれる。例えば、大人から言われなくても勉強に取り組んでいる子どものことを“主体性がある”と言う人がいる。これは自主的といえるけど、“主体的”なのか?主体性とは、むしろ、勉強にどんな価値があるかを問うたり、大人の価値観と違っても自分にとって価値が感じられることに自分の責任で取り組む態度なのではないのだろうか。

 

あるいは、子どもの“主体性”を尊重するためには、大人はあまり関わらない方がよいと言う人がいる。でも、僕たち自身が主体的に取り組んでいることを振り返ってみると分かるが、自分一人だけで考えついたことなどなく、いろんな人から刺激を受けたり、問いを突きつけられたり、一緒に考えたりしながら、自分なりの主体性を形成してきたはずなのだ。子どもの主体性が育つにはどのような関わりが求められているかをその子の現実に即して考え試行錯誤していくことが大人には求められるのに、“主体性を尊重している”という言葉で安心してしまうと、考え続けることから逃れてしまう。

 

“主体性”という言葉は一例に過ぎない。本当はもっと深く考え続けなければならない問題があるのに、抽象的な言葉を使うことで分かったつもりになってしまい、考えなくなっていくという問題が溢れているように僕には思える。

そして、具達的イメージをともなわない言葉を使っていると、コミュニケーションが閉ざされていく。その言葉の意味を共有していると感じている仲間内では話が通じ合ったつもりになれるけれど、その言葉の意味がよく分からないと感じている人には言葉が通じない。学校の授業で生じていることがまさにこれで、抽象的な用語や式が分かったつもりになっている人だけの中で授業は進行し、意味が分からないと感じている人はもう入口から入ってこなくなる。

 

抽象的な用語や式を知ることで、僕たちは思考を先に進めていける気がする。でも、どんどん先に進める前に、その用語や式の背後にある具体的意味をもっと考えなければ、考えが上滑りになったり、コミュニケーションが閉じられたりしてしまう。そのことに気づかせてくれるのは、抽象的説明ではわからないという人、言葉がスーッと素通りしない人との関わりだろう。簡単には分かってくれない相手と話すことは、僕たち自身がちゃんと分かっていくためにも大切なことなのだ。

 

“わがまま”ってなんだろう?

娘が小さかった頃、友達と鬼ごっこするのを僕は見ていたんだが、ジャンケンで負けても自分だけ鬼をやろうとしない子がいた。最近、そのことを娘に話すと、「他にも、隠れん坊で、鬼になると勝手に家に帰っちゃう子もいたよ」「もしかすると、鬼だけひとりぼっちになる感じが嫌だったのかも」と言う。ああ、確かに、そういうことだったのかも。当時の僕は、「子どもだなあ」くらいにしか考えていなかったのだが。

 

これも随分前の話だが、自分が話したい子に他の子が話しかけているのをみて、「私が話そうとしていたのに!〇〇さんが話していると、私が話せないじゃない!」と怒り出す中学生がいた。その時、僕は、なんてわがままな主張だろうとあっけにとられて見ていた。今考えてみると、この中学生は、話せる人が全くいない状況に耐え難いほどストレスを感じていたのかもしれない。そして、自分自身でも感情の整理がうまくできないし、語彙力も欠けているので、極端な物言いになってしまったのだろうか。

 

まなび場*ではボードゲームで交流する時間を設けている。まず、どのボードゲームをやるかを話し合うのだが、「これ以外は嫌だ」と主張して譲らない子がいた。周りの子は、妥協してその子に合わせていたのだが、とうとう「俺達だってやりたいボードゲームがあるのに、いつも俺達ばかり我慢している!たまには、お前だってがまんしろよ!」と怒りを爆発させる子も出てきた。この時は、ほとんど喧嘩状態からスタートして、互いに何が嫌なのかを言葉にしてもらって(これがなかなか難しい)、ギリギリ妥協できるラインまでかろうじてたどりついたのだった。

 

僕達は、自分の気持ちだけ主張して人の気持ちを考えない相手には、“わがまま”と言いたくなる。確かに相手は人の気持ちを考えていないように見える。でも、自分はどうだろう。相手がどんな気持ちでそういう態度をとっているか、考えられているだろうか。もちろん、相手の“わがまま”に腹が立っているとき、相手の気持ちを想像するゆとりなどない。でもそれは相手も同じで、人のことまで考えるゆとりがないから(どんな状況でそうなるかは個人差が非常に大きいい)、”わがまま“な態度になってしまったのだろう。

 

“わがまま”と決めつける前に、いったん立ち止まって、相手は何を感じているのか想像力を働かせてみたい。それは難しいことだけど、そこからしかコミュニケーションが始まらないことがあるように思うのだ。

 

* https://manabiba.org/

 

 

bとdは同じ図形!

bとd、pとqを書き間違える子どもと、時々出会う。そういう子どもに対して、僕は、この子は文字が苦手なんだな、くらいに思っていた。“読字障害”の人にこの傾向があることも知っていたけれど、その意味について深く考えたことはなかった。

 

さて、最近、ある本*を読んでいると、bとdなどは三次元上では「同じ形」であること、「読字障害の人びとは、一般に視覚空間処理とパターン認識が非常に得意」であることが指摘されていた。なるほど! 僕はbとdを、はなから全く別の記号と捉えていたけど、bとdを間違える人は、この二つの記号を瞬時に合同なものと認識していたわけか。右を向いた猫も左を向いた猫も同じ猫であるように。これは、ある意味、スゴいことかも。

 

文字を正しく書けるかどうか、だけでなく、文字をどのように認識しているか、まで考えてみたとき、こういう人たちの認識のユニークさ、面白さに気付かされる。

 

もちろん、似た特性の人たちの中での“能力の高さ”の違いはある。以前、発達障害の親の会をやっている人と話をしたとき、その人は「エジソンADHDでした。でも、ADHDの人がみんなエジソンなわけではありません!」と笑っていた。認識や行動の特性が“みんな”と違うだけで、人より劣っているかのようにみられがちなことへの反動で、そういう特性の人の方が“みんな”より優れているかのような主張が出てくるから、こういう当たり前のことも言っておいた方がよいように思う。特性の違い、能力の高さの違い、両方を含めて、人の多様性に面白さも意味もあるのだろう。

 

“みんな”と同じようにできないことをどう見るか、という話に戻す。これは、文字の間違いだけの話ではない。子どもに教えていると、多くの人がすっと通り過ぎる所で、「分からない」という子どもがいる。教える側としては、ちゃんと考えたら分かるはずなんだけど、と思いがちだ。でも、その人の分からなさにきちんと付き合ってみると、確かにそこは僕もあまり深く考えていなかったな、と気付かされるときがある。僕たちは大体分かったと思ったら次に進むというやり方で学習してきていて、一つのことについて、あらゆる角度から徹底的に検討するということは、あまりできていない。「わからない」という人は、僕たちが気にしていなかった何かが気になっているのかもしれない。“理解の早さ”という一つのモノサシに当てはめて評価しているだけでは、子どもの個性も、ものごとの奥深さも、見落としてしまう。

 

できないことを単純に問題と見るのではなく、その奥には何があるのか、その人はどんなふうに感じているのか、どんなことを考えているのか、相手の内面にあるものに関心を持つよう心がけたい。

 

*「病の起源②」NHK出版

疑問を持たない

子どもに数学を教えていて、自分では分かったつもりで今まで教えてきたことなのだが、今頃になって、「あれ、これはどういうことだろう?」と疑問がわくことがある。若い頃に読んだ本を再読していて、以前には読み飛ばしていたところで引っかかることもある。どうして、今まで疑問をもたずに通り過ぎてきたのだろう。

 

意味をさかのぼって考えなくても、とりあえず、やり方を覚えれば、先に進んでいけることは多い。スマホやPCだってそうで、動作原理は考えなくても、操作のやり方を覚えれば使える。学校で学ぶことの中にも、とりあえず、やり方を覚える、というものもある。何かを学んだり本を読んだりするときにも、いちいち立ち止まっていると先に進めないので、だいたい分かったと思ったら、先に進む。学校教育の中でそういうあり方を身につけてきた面も、あるかもしれない。

 

しかし、やり方さえ身につけばよい、どんどん先に進む方がよい、ということばかり積み重ねていると、いちいち意味を考えたり疑問を持ったりする態度は育ちにくいだろう。疑問を挟むゆとりを持たずに先へ先へと進むことの副作用は非常に大きいと僕は感じている。例えば、最近気になるのは、ネット上で、根拠があいまいな内容を自明だと決めつけて主張している人たちのことだ。それが正しいのは、“みんな”が言っているから?本に書いてあったから?信用できる人が言っているから?そこに疑問は生じなかったのだろうか。

 

やり方を身につけることと、自分自身の頭で考える態度を育てることと。どちらも求められることだが、今の教育は、やり方を身につけることに目を奪われ過ぎて、結果として、考える態度を育てることがないがしろになっているように思う。子どもに教えるときには、本当にそうなのか、どうしてそうなのか、これにはどんな意味があるのか、他のやり方はないのか…、といった疑問を子どもが持つこと、そして、その疑問をきちんと掘り下げていくことをもっと大切にするべきだろう。

相手の世界に付き合ってみる

自分がめくったカードに書かれたお題についてヒントを出して、お題は何なのかを当ててもらうゲームがある。ヒントを出す側も当てる側も、知恵を絞ることを楽しむゲームだ。

 

ところが、ある子ども達は、繰り返し遊ぶうちに、そのお題が出たときの合図(合言葉や手振りなど)を仲間内であらかじめ決めておいて、合図にどれだけ早く反応できるかを競って面白がっている。これでは、説明を工夫するという本来の面白さがなくなる上、合図を知っている人しか参加できなくなってしまう。こういうやり方はつまらないと思う人もいるし、僕も、オイオイ、なんか違うんでは、と言ったりもした。

 

でも、この方法で楽しく遊んでいる子達に付き合っているうちに、まあ、これはこれでアリか、という気持ちも生まれてきた。百人一首だって、こういう遊び方だし。

 

多くの人は、定められた遊び方の中で工夫したり努力したりする中に楽しみを見出していく。そして、決められていることを守らない人がいると、みんなが楽しめなくなると考える。でも、与えられた遊び方では楽しくないと感じる人もいる。何を楽しいと感じるかは人によって違うのだ。それに、不公平を生まないためにルールがあるといわれるが、ルールに従っていれば誰にでも公平に勝てるチャンスがあるわけではない。そう考えると、ルールを自分に都合良い方向にずらそうとすることに、そんなに目くじらを立てることもないという気になる。子どもの勝手な遊び方は否定せず、でも、こちらはこちらが正しいと思う遊び方をしていればよいのだ。すると、子どもも遊び方を少しこちらに寄せてくることもある。

 

ゲームに限った話ではない。当然こうすべきと僕たち大人が思っていることをやらない子どもがいる。そんなとき僕たちは、自分の常識に従って相手を批判したり、こちらの世界に相手をなんとか引っ張ってこようとする。でも、そういう態度では相手との接点がなかなか見えてこない。

 

だったら、自分の世界に固執せず、とりあえず、相手の世界と付き合ってみるのがよいかもしれない。相手の態度を外から眺めているのではなく、何かを一緒にやっているときに、ふと、相手の言動がちょっと了解できたという感覚が生じるときがある。そういう感覚を持って付き合っていると、相手の側にも、自身の言動を振り返るゆとりが生まれるときがあるようだ。

間違うから、面白くなる

まなび場で、高校生が中学生に勉強を教えていた。僕は、その雰囲気がいいなあと思ったのだが、高校生は間違ったことを教えていた。で、僕は、「それ、違うよ」と口を挟んだ。その後、その高校生は勉強を教えなくなってしまった。

 

一つくらい間違ったことを教わっても、どこかで修正することができる。そんなことより、教え合うとか一緒に考えることを楽しむ空気を大切にすることを優先すべきだったな、と反省させられた。

 

勉強を忌み嫌う子どもがいる。人によって興味の持ち方は違うし、学校の勉強にはつまらない内容も多い、と僕も思う。でも、すべてがつまらないという感じ方については、どうしてだろう、と考えさせられる。もしかすると、分からなかったり間違ったりしたときのまわりの反応も関係しているのではないか。

 

“正解”を出すと褒め、間違うとダメ出しする。大人はこうやって、子どもを“正解”に導いていこうとするのだが、いつもダメ出しされ続けた結果、嫌になってしまったのではないのか。では、どうすればよいのだろう。

 

スモールステップに分けて、小さな成功体験を積み重ねるとよい、という考え方がある。あるいは、努力自体を評価すればよい、という人もいるだろう。うん、それもそうかもしれない。が、何か違うような気もする。“正しい”方向にまっすぐ向かっていく、という以外の視点が欠けているように思うのだ。

 

子どもが間違ったとき、なぜ間違ったかを吟味することで、ことがらに対する理解が深まる。間違うことなく一直線に出された“正解”はのっぺりしていて、試行錯誤を経てたどり着いた理解のような深さがない。それに、“間違い”の中には、“正解”を知っている人が思いもよらなかった発想が含まれていることもあり、それを味わったり面白がったり、その発想から何が生まれるかを深掘りしてみたりすることもできる。間違うというのはダメなことではなく、むしろ、間違う人がいることで、面白くなる。そのことをみんなが感じていれば、間違うことを恐れることもないし、できないからやりたくないと思う人も減るのではないだろうか。

 

はじめにあげた高校生への僕の対応だが、「それ、違うよ」ではなく、「もうちょっと詳しく説明してあげたら」などと反応して、その説明の中身を一緒に吟味できると良かったかもしれない。そうすれば、中学生も、先生から正しいことだけ教わるより面白いと感じたのではなかろうか。

人とぶつかり合える場

「学校に行かないことで学べたことは?」と人から聞かれたとき、「まなび場(*注)で、人とぶつかっても、話し合って、仲直りしていったことかな。学校では、そういうことがなくて、関係が切れてしまったから」と、卒業生が答えていた。そういえば、先日、「人を理解するには何が大切か」というテーマで話し合っていたとき、ある中学生は「喧嘩すること」と言っていた。この人も、ここで、そうやって関係を作ってきたのだった。

 

この人達が言っているぶつかり合いや喧嘩というのは、個人と個人だけでなく、個人と周囲との衝突をも指している。周囲が考える“こうすべき”に反する態度をとった人が周囲と衝突し、シビアな話し合いになることがよくあったのだ。

 

いろんな方向を向いた人が一緒に過ごしていれば、互いに気に入らないことだってある。それを言い合うことで、はじめて、自分や他人のことが少し見えてきたりもする。でも、多くの場合、学校では、自分達の“こうすべき”が通じない人とは関わり合うこと自体が避けられてしまって、考えをぶつけ合ったりはしない。みんなに合わせない人が学校に来なくなって教室に居なかったりもする。まわりに合わせて自分の本当の気持ちを抑えてしまっている人も少なくない。学校の中では、個人と周囲が真剣に向き合って話し合うということが起こりにくくなっているのではないか。

 

いつでも人がぶつかり合っているのも疲れるけれど、違和感があっても言うことを避けている場というのも風通しが悪い。言い合っているうちに、相手に何かが通じるということもあるし、自分の感じ方が修正されることもある。喧嘩のようになってしまっても関係は修復できるという体験も、人間関係を築いていく自信になる。教育の場は、時々はみんなの中でぶつかり合いが生じているくらいがよいと思う。

 

*注:私は「まなび場」というフリースクールを運営している。