まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「出来ないことが出来るようになること、じゃないよ」

 学生時代、福祉を学んでいた友人から「発達って、出来ないことが出来るようになることじゃないよ」と言われたことがある。どういう意味なんだろうか。もう何十年も経つのだが、ずっと引っかかっている

 

 子どもが何かを出来るようにしていくことが教育だ、と考えている人は多いだろう。子どもが何かを出来るようになると、大人に喜ばれたり褒められたりする。出来ないと、喜ばれなかったり怒られたりもする。大人のそういう態度によって子どもは出来るようになっていくとも思われている。

 

 出来ることが評価されるという教育は、実際にはどんなことを生み出しているだろうか。出来る子は、評価される。それが自信につながり、ますます出来るようになっていく。出来ない子は、低く評価される。それで、頑張って出来るようになっていく子もいるけれど、やる気を失って、ますます出来なくなっていく子が多いようにも見える。出来る子と出来ない子の差はどんどん広がっていく。出来る子も、人から評価されることで動機づけられているだけでは、ある程度出来るようになるとしても、本当に好きでやっている人のようには深まっていかないのではないか。

 

 僕は子どもの頃、楽器の練習に取り組んでいた時期があった。今から振り返ると、速く正確に指を動かすことが“出来る”ようになることに意識が向いていて、音に耳を澄ますという態度とは違ったようにも思う。だから、人と比べて自分がさほど出来るわけでもないと気づくと、練習しなくなっていった。弾くこと自体が本当に好きだったら、人より出来るかどうかなんて関係なかったはずだ。楽器自体に強い関心があったというより(自分ではそう思い込んでいたけど)、何かが出来るようになることで自信を得たかったのだと思う。

 

 中高生の数学の勉強では、公式を暗記していることで出来るように見えているけれど、意味は分かっていない、ということもある。出来ることだけを目指していると、自分の頭でじっくり考えてみたり、自分なりに工夫してみたり、試行錯誤したり、という過程がすっぽり抜け落ちてしまうことがあるのだ。そんな勉強はつまらないと思うのだが、とりあえず人の評価を得ることはできる。

 

 子どもに教えるときは、出来るようになることを目指すというより、子ども本人が関心を持って考えたり試行錯誤してみたりすること、そして、もっと考え続けたいという気持ちが育っていくことをまずは目指すべきだろう。出来るは結果といしてついてくればよい。授業についていえば、教室にいる子どもたちは、関心の持ち方、理解の仕方やペース、考え方、みんなまったく違う。全員が同じように出来るようになることを目指すには無理がある。一方、それぞれの子どもがその人なりに考えたりやってみたりすることは、子ども達の中にどんなに違いがあっても、教師としても工夫して追求していける目標だし、子どもたちにとっても、人との優劣に気をとられることなく自分なりに取り組めることだ。そして、教師=既に出来るようになっている人、子ども=まだ出来ない人、という単純な二分法ではなく、教師と子どもとで一緒に探求していくというスタンスの方が、教師にとっても子どもにとっても自然体で楽しく学んでいける。

 

 子どもが何かを出来るようになることに僕たち大人は関心を向けやすい。それはそれで自然なことだと思うが、出来る・出来ないに関わりなく、子どもの中でどんなことが生じているかに関心を向けることにもっと意識的でありたいと思うのだ。