まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「私はどうしたらいいんでしょうか?」

 何をやってもうまくいかず途方に暮れてしまった人から、「私はどうしたらいいんでしょうか?」と相談されたことがある。正解がどこかにあるわけではないし、僕がその人の代わりに答えを出すこともできない。「自分では、どうしたいの?」と聞き返して、一緒に考えていこうとした。でも、その人は、あまりに考えがもつれてしまって糸口すらみつからない。そこを解きほぐす作業が不十分なまま、僕は結論めいたことをアドバイスしてしまった。

 その時は、その人は納得した様子で話を終えた。だが、何日かして再度話してみると、やっぱり同じところで思考がもつれたままだった。本人の中で結論を出す準備ができていないときに、他の人が結論を導いてもダメなのだ。

 

 僕が結論を急いでしまったのは、結論が出ないままでは話を打ち切りにくかったからだと思う。問題が宙ぶらりんのままでは、その人が安心できないように感じたのだ。

 相談を受けたときに、結論めいたことは何一つ見えていないのに、話を打ち切ることに大きな抵抗を感じないときもある。それは、僕が真剣に考えていること、そして、悩みに継続して付き合っていく気持ちがあることが相手にきちんと伝わっているときだと感じる。相手のことを真剣に考えたという実感を僕自身が十分に持ち得ないと、話を打ち切りにくくなるのだと思う。

 

 悩みの渦中にある人は、苦しいので、一気に解決する答えを求めてしまいがちだ。でも、答えがすぐに見つかるとは限らない。悩み自体はすぐには解決しなくても、悩みを人に話すことで、しんどさを軽減させていくことはできる。そして、「どうしたらいいのか」は分からなくても、「どうしたいのか」「なぜそうしたいのか」が自分自身で少しでも見えてくれば、その方向で自分にできることを一つでも試してみればよいと思う。

 

 「どうしたらいいのか」については、他人が肩代わりして結論を出すことはできない。しかし、本人一人の限られた体験や考えの中だけでは見えてこないものもある。どうしたらいいのかを相談されたら、この問いの答えも僕たちなりに真剣に考えなくてはならない。その結果、方向が少し見えてきそうなときもあるし、なかなか方向が見えないこともある。いずれにしても、誰かが一緒になって真剣に考えるということ自体が、本人の不安な気持ちを少し軽くする。それだけでも、一緒に考えることの意味はある。