まなび場ブログ

若い人たちとの対話

問いを育てる

 「大学で何を学びたいか聞いてみたら、自分はこれを学びたい、と言える生徒が多くて、意外でした」と、若手の高校教師が話してくれた。”意外“というのは、日頃のやりとりからは、高校生達が、何かに対して強い興味を持って自分で勉強したり考えたりしているようには見受けられなかったからだ。その先生は、「学びたいことがあるなら、今から学べばいいのに」と思ったという。本当にそうだ、と僕も思う。

 

 生徒にとっては、問題集や参考書での勉強をたくさんやると、テストの点数、したがって、自分の評価につながる。そういうことが勉強の動機になっている。その枠組みから離れてまでも自分で学ぼうというエネルギーのある人は少ない。何を学びたいか聞かれたら答えられる程度にはうっすらと関心があるとしても、今、本気で学びたいというほどでもない、そんな生徒が多いのではないか。

 

 学びたいという気持ちが弱くても、とりあえず目の前の勉強をこなすことが大切と考える人もいる。しかし、受け身の姿勢で情報をどれだけ取り込んでも、自分の頭で考える姿勢がなければ、それは雑多な知識の寄せ集めにしかならない。テストの準備にはなったとしても、それ以上の意味を持ち得るかは疑問だ。深く考えたいという気持ちにそって学んでこそ、知識が自分の中で体系的に編み合わされ意味を持ってくる。

 

 僕は、高校教員だった頃、①分かりやすく解説する、②興味を持てるようにする、③できるようにする、といった優先順位で授業を考えていたと思う。(もちろん、一方的に教えるのではなく生徒が自分で考えることが大切とは思っていた。でも、生徒の思考より、自分がうまく説明する方に意識が向きがちだった。)でも、最近子どもに教えるときは、自分で考えたいという気持ちが子どもの中で育つことを最優先にしたいと考えている。分かりやすく説明すると、子どもの反応は良いが、それが本当に子どものためになるかはまた別問題だ。本当はもっと奥深いことを単純化して分かった気にさせるような解説は、深く考えたいという気持ちを育てない。何が分からないか・何を考えるべきかが明確になっていくような“分かりやすさ”が求められる。

 

 深く考えようとしている人というのは、自分の中に問いがある人だと思う。なんでだろう、どうすればいいのだろう、どういう意味だろう、そういう問いへの答えを求めて考え続ける。強い問いを持っていない人は、なんとなく興味がわいても、本気で自分から学ぼうとまではしない。僕たち大人は、子どもが知識を詰め込んでいるかどうかではなく、問う心が育っているかどうかにこそ関心を持つべきだろう。