まなび場ブログ

若い人たちとの対話

第三者がいる、ということ

 僕がある子と生活態度について話し合っていると、「責めるような言い方になっていませんか」と横から声をかけてくれた子がいた。

 そのとき、僕としては、責めるのではなく本人の考えを聞いているだけのつもりだった。だから、話し合っていた相手から同じことを言われたら、「そんなことないと思うけど」と弁解したかもしれない。言われたことを「あ、そうだったか」とすっと受け止められたのは、これが第三者の言葉だったからだという気がする。

 

 一対一で話し合っているとき、自分自身のことは見えにくいし、自分のことを相手から指摘されても素直に受け止めにくい。相手に対しても、自分の視点からだけ見ていて、違う面が見えていないかもしれない。互いに自分の考えに固執して、話し合いが膠着することもある。第三者が横から介入してくれることで、あらためて自分自身を振り返ったり、相手を違う視点で見たり、新しい発想で考えたりできる。

 親子が口論しているときに家族の誰かが介入することで少し話がかみあうといった体験は、誰にでもあるのではないだろうか。国と国だって、第三国の仲介で交渉が進んだりする。当事者だけでなく、第三者がいるということが大切なのだ。

 

 子ども同士の関係でも、当事者間で否定的な感情がふくらんでいるとき、第三者が仲介することで関係悪化にブレーキがかかることがある。僕も、子どもが集まる場を運営しているので、必要性を感じたときには第三者として関係の橋渡しをする。とはいえ、大人は子どもの世界には入りこめない面があるから、本当は子どもが第三者の役割を果たせることが望ましい。第三者の立場にたてる子どもの存在は、いじめの抑止にもなるだろう。

 

 第三者であるためには、当事者から距離を取れる必要がある。人に合わせるという態度では、当事者のどちらかに巻き込まれてしまう。人に合わせる必要はないし誰に対しても自由にものを言ってよい、このような空気の中でこそ、第三者の役割を担える人間が育っていくのだと思う。

 でも、それだけでも足りない。相手に対する配慮や誠意がないと、当事者の信頼は得られない。そもそも、人に対する関心がない人は第三者として関わろうとしないだろう。人に巻き込まれないけれど、人に関心を持つ。それが本当の協調性かもしれない。なかなか難しいことだが、僕もそう心がけたいし、若い人達がそのように育ってくれることも願っている。