まなび場ブログ

若い人たちとの対話

相手が見えていないとき

 教員だった頃、授業中ふとしたきっかけで脱線して、雑談をすることがあった。話す筋道をあらかじめ考えていたわけではなく、生徒の反応に応じて話していくうちに、それなりにまとまった話になる。生徒の反応が良いと、別のクラスでも同じ話をしたくなる。ところが、別のクラスで話すと、聞き手の反応は良くない。先ほどよりも整然と話したのに。

 二回目の方が反応が悪くなった理由を考えてみて、思い当たることがあった。最初のクラスでは生徒の反応を探りながらしゃべる言葉を選んでいたのだが、次のクラスでは、話が出来上がっていて、聞き手の反応に応じて話すという手間が省かれていたのだ。

 

 「まなび場」でも、少し似たことがある。ここには、多様な子ども・若者がやってくる。その人が生き生きできるにはどうすれば良いのか、その都度、手探りで考える。そして、こういうやり方がこの人達に合っていそうだという経験も蓄積されてくる。しかし、このやり方で良いという思い込みがあると、空回りすることがある。一人ひとりがどう思っているかに注意を向けるていねいさが欠けると、うまくいかない。

 

 ネット上には、こういうタイプの子どもにはこういう対応がよいといった記事があふれている。著者が多くの子どもと関わる中で抽出された言葉は、参考になることも多い。だが、子どもは一人ひとり全く違う。一般化された説明を読んで分かったつもりになってしまうと、目の前の子どもの姿は見えにくくなる。目の前の子どもを自分の目で見て自分の頭で考えることがおろそかになると、結局本人の求めているものとずれた対応になっていく。

 

 発達障害の診断を受けたという人が僕にこんなことを言う。「15人に1人が発達障害って聞いたんだけど。私のコピーがそんなにたくさんいるんだったら、私がいる必要ないじゃん」。発達障害の対処法といった記事などを見ると、これらの人達は同じ方法で対処できる人達(=同じ個性の人達)なのだというイメージだって生じるだろう。人はそれぞれ全く独自な個性を持っているのに。

 

 自分や他人が経験してきたことは、子どもとのかかわり方を考える手がかりにはなる。でも、それは手がかりに過ぎない。目の前にいる相手のことは、その人を自分の目でよく見て分かろうとするしかない。こちらが相手のことを少しでも分かろうとしているときには、その態度自体から相手に伝わるものもある。うまい対応ではなくても、思いが伝わることの方が意味を持つこともある。どんな対応をするかの前に、まず、自分が相手にどのように関心や思いを向けているかを振り返るようにしたい。