まなび場ブログ

若い人たちとの対話

自分にとっての“普通”

  自分にとっては“普通”の感覚が、相手には全く違うということがある。

 

 小学校の頃の思い出を話し合っていたとき、「子どもが書いた習字に、先生が朱で直しを入れるのに腹が立った」と言う若者がいた。わけを聞くと、「人の作品に勝手に書き込んじゃだめでしょう」と言う。正直なところ、この意見に対して僕は抵抗を感じた。習字はお手本に近づけるもので、自由に表現する絵画とは違うというのが“普通”の考えだと思ったのである。

 習字をアートだと感じていたらこのように感じても何もおかしくはないと思い直したのは、後になってのことである。あるいは、この若者は、人からダメ出しされることが嫌だという気持ちを受け止めて欲しかっただけかもしれない。

 

 こんなこともあった。子ども達とトランプで遊んでいた時、負けそうになった子がルールを変えて欲しいと言い始めた。「こんな風に負けたら嫌だと思うのが“普通”でしょ」と言う。一度負け始めると挽回が難しいルールだったのである。他の子達が「こういうルールなんだから」「ゲームの途中だから」「もし私が負けたとしても、別に嫌じゃない」と言っても、本人は納得しない。ゲーム途中でルールを修正して欲しいという方が“普通”じゃないのではと、僕は最初思った。

 でも、話し合っているうちに、途中であっても気づいた時に修正すればいいというのも一つの意見だし、そうは思わないのもまた一つの意見に過ぎないという気になってきた。少しギクシャクしたが、結局、みんなが楽しめるようなルールに変更することになった。

 

 違う意見があっていいと思っているつもりでも、一方で、少なくともこんなことは“普通”言わないはずという思い込みも僕たちは持っている。そして、自分が“普通”と感じている線をはみ出す人があらわれたとき、それを受け入れにくい気持ちが生じる。気づかないうちに自分で線を引いて、その線の外の考えを否定的に見てしまうのだ。互いに自分の方が“普通”だと思っていると、不毛な対立が生じる。多数派の“普通”が正しいという空気は、いじめや差別にもつながる。

 

 「これが“普通”」という感覚は、どうして生じたのだろう。今まで自分の周りにいた人達が同じような感覚を持っていたので、それが身についただけではなかろうか。多くの場合、僕達は理屈を考え抜いた上でそれを“普通”と感じるようになった訳ではない。世の中には、全く違う感覚の人もいるし、その感覚を正しいとする理屈だってあるかもしれない。

 

 人と関わっていると、自分の“普通”が相手には通用しない時がある。そんな時、相手を“普通”でないと見てしまうのではなく、互いの考え方や感覚の違いをすり合わせる態度をとるように心がけたい。