まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「楽しいって分かんない」

 若者が集まっていろいろ話し合っていたとき、こんな会話になった。

A 「楽しいってわかんない。トランプやってても楽しいって思わない。勝ったら嬉しい。」

B「わかるわかる。ゲームとかも達成感だよね。」

A「うん。やってる途中楽しいかっていうと...。」

C「ゲームも始めは楽しいけど、だんだん作業的になっていく。」

D「昔はそうだった。今は、作業的になってきたら、もうやらない。」

E「じゃあ、どんな時楽しいの?」

C「うーん...。あ!今(こうやってみんなと話し合っているのが)、楽しいわ。」

 

 トランプにせよボードゲームにせよ、自分が勝っている間は続けたがるけれど1回でも負けた途端にやめたがる、という子どももいる。勝とうが負けようが、人と一緒にワイワイ遊ぶことが楽しいという感覚が(そして、対戦を重ねていくうちに少しずつコツがつかめてくることを楽しむという感覚も)あんまり無いのだろうか。

 会話の中ではトランプ等について語られていたが、これを他の言葉(例えば、勉強)に置き換えても、彼らの会話は同じように成り立ちそうだ。「勉強やってても楽しいと思わない。テストでいい点取れたら嬉しい。」「勉強とかも達成感だよね。」…。

 

 あるプロ棋士の方が「囲碁の勝負ではAI(人工知能)に勝てなくても、囲碁を楽しむのは人間の独壇場」と述べていた。AIは確かに人間より強いが、AIは囲碁を楽しんではいない。楽しめるのが、人間のすごいところなのだ。「勝ったら嬉しい」「勝てないとつまらない」と結果に一喜一憂するのも人間的なことだけど、結果にとらわれ過ぎると、取り組むこと自体を楽しめなくなってしまう。

 

 楽しさを十分に体験できずにいる子どもや若者の背後には、楽しさを大切にできずにいる大人社会があるのではないか。何かに取り組むとき、“楽しめるか”よりも、“楽しくなくても頑張れるか”の方が大切だと思っている大人が多い。でも、楽しめなくても頑張るという状態は、長続きするのだろうか。勉学やスポーツが “できる”という評価をされていた間は人一倍頑張ってきたのに、自分の“できなさ”とぶつかった途端、何もかもやる気を失なったという人達もいる。一方、何かをずっと継続している人達は、そこに自分なりの楽しみを見出している人のように見える。

 

 教育の世界では、楽しむということの意味を低く見積りすぎているように思う。取り組むことを楽しめるという感覚こそが、人を生き生きさせてくれるし、自分の頭で深く考えたり自分なりの工夫をしたり新しいものを生み出したりする土台ではないか。僕たち大人が子どもに何かを教えるときも、“どうすれば子どもができるようになるか”ということ以前に、“どうすれば子どもは学ぶことの中に楽しみを見出すか”をもっと本気で考えるべきだろう。