まなび場ブログ

若い人たちとの対話

“ファスト教育”?

 ファスト映画なるものの存在を、ある人が教えてくれた。

「映画を10分くらいに編集して、あらすじが分かるようにした動画です」

「え?それ、何の意味があるの?」

「まわりの話題についていくために知っとかなきゃって人が観るんでしょうね」

 あ、これは学校の勉強に似ている、と僕は思った。時間をかけてじっくりと何かを感じたり考えたりすることをすっ飛ばして、効率よく、あらすじ(要点)を流し込む。なんでそんなことをするかというと、知っていることが自分の評価にかかわると感じているから。

 

 実際にファスト映画を観てみた。普通の長さの映画を観ているときには、自分の中で様々な感情や思考が生じてくる。でも、ファスト映画では、一方的に情報が流れてくるだけで、自分の中に生じてくるものが何もない。

 自分の中で何かが生じてくるためには、”分からなさ”のような感覚が必要なのではないか。もやもやするものがあったり、まだ見えていない奥行きを感じたりするとき、考えよう、感じ取ろうという心の動きが生じるように思う。ファスト映画には”分からなさ”を感じる余地がない。

 映画だから、要約することの無意味さが際立つけれど、よく考えると、これと似たことを僕はいろんな場面で体験している。小説を読むときに、細かい描写を読み飛ばしてあらすじを追うような読み方をするときもあるし、何かを学ぶときに、時間をかけて専門書を読むことをせず簡単な解説本だけで済ませていることも多い。

 

 学校の勉強はどうか。じっくり学べば「どういうことだろう」「どうしてだろう」「本当にそうなのか」といった疑問が生じるはずの内容でも、そういう“分からなさ”は素通りして、子どもを分かった気にさせようとする授業が多くはないか。僕自身、学校で数学を教えていたときに、どうすれば子どもの中に思考が生じてくるかよりも、どう説明すれば分かりやすいかに意識が向きがちだった。それは、複雑さや奥行きの深さにまで踏み込んでいないだけの場合があるのだが。

 「教師が説明するだけの授業では、子どもが受け身になってしまう」ともいわれる。子どもが発言したり議論したりすることは大切だが、仮に教師が説明するだけだったとしても、それが子どもの感情や思考を喚起するような奥行きあるものであれば、受け身で終わらない。

 

 ファスト映画に限らず、薄めた内容で“分かりやすい”と思わせる情報があふれている。せめて、教育の場は、「分かりやすく教えてもらった」だけでなく、「自分で考えた結果分かった」という体験ができる場でありたい。あるいは、「考えたけれど分からない、でも、考え続けたい」と思えれば、それでよいのではないか。効率よく要点だけなぞっても、自分の中では何も生まれてこない。

「記憶がなくなっちゃうんだったら…」

「いつか死んで記憶も全部なくなっちゃうんだったら、生きてる意味ないことない?」

ある若者からこう問われたので、

「今生きて何かを感じていることに、意味があるのでは。記憶が残ることに、ではなく」

と僕は応えた。死についてどう思うかは、人によって様々だ。ここでは、記憶がなくなる、という話から連想したことを書いてみたい。

 

 “思い出作り”という言葉があるが、この言葉に僕は昔から違和感を持っている。あとから振り返っていい思い出になるために今何かをやる、それで今を生きていることになるのか。先のことを考えてしまっている時点で、今に没頭できていないのではないか。そんなふうに感じる。これは写真を撮るという行為にも感じることで、人に伝えるために写真を撮ることはあるけれど、自分の思い出のために撮りたいとは、僕はあまり思わない。

 小さい子どもは、先のことではなく今に没頭している。今やっていることを後からどう思うかには意識が向いていない。でも、成長するにつれ、この先〇〇できるためには今△△をやっておかねば、という考え方に慣れ親しんでいく。“思い出作り”という発想は、このように先から逆算して今を考える習慣とどこか繋がっているように感じてしまうのだが、どうなのだろう。

 

 今ではなく先のことを考えるあり方を、大人は子どもに教えようとする。僕が中学教師だった時、ある教師が全校生に「中学時代は、将来のための準備期間。今はやりたいことを我慢して頑張るべき」という話をしたことがあった。学校ではよく聞く話なのだ。この時、ある生徒が「あの考え方はなんか違うと思います」と僕に声をかけてきた。スポーツに打ち込んでいる生徒だった。「将来の準備のためだけに今があるわけじゃないよね」と僕が言うと、彼は、その通り、という顔をした。今、そのスポーツをやりたいから、やっているのだ。先から逆算して、あとで何かに役立つからやっているのではない。将来から逆算して将来に役立つことをやるという発想が強過ぎると、自分が本当にやりたいことを見つけそこなわないか。

 

 大人は若い人に先のことを考えさせようとし過ぎてはいないか。そんなことよりも、まず、今を生き生きと生きることを手助けすることが先決ではないか。今を充実させていけば、結果として、先の可能性も広がっていくだろうし、思い出も蓄積されていくだろう。でも、先のために今があるのではない。仮に将来の役にたたなくても、あるいは、いつか死んで記憶が消えても、その時生き生きと生きたことに意味がある。

自分を疑う

 「親の考えを押し付けられる」という話を聞くことがある。親と違う考えを言っても聞いてもらえない、と。僕も、「私の意見を最後まで聞かずに論破してくる」と若者から指摘されたことがある。

 

 これは、僕たち大人が、自分の方が正しくて子どもはよく分かっていないのだと思っているときに起こりがちだ。そして、言い争いになると、子どもにはなかなか勝ち目はない。大人の方が理屈にたけていることが多いのだから。でも、本当に僕たち大人の方が正しいのだろうか。

 

 僕の娘が中学生だったとき、夢中になっていたアーティストのコンサートに行こうとしていたのを、僕が反対したので取りやめになったことがあった。コンサートが定期テストの前夜だったので、せめてテストの前日くらいは勉強すべきだと僕が主張したのだ。それは一生に一度の特別なこと、と娘は思っていただろう。そのコンサートがその時の子どもにとってかけがえのないものだったことに僕が気づいたのは、そのアーティストのコンサートに行く機会が一度もないまま娘が大人になった後のことだ。僕は、自分の思春期に、何をおいてもコンサートに行くのだと思えるほど熱中しているアーティストがいなかったから、自分の狭い体験を拠り所に意見を言っていただけだった。(と、書いてみたが、話をわかりやすくしようとして単純化しすぎたようなので、補足しておく。実は僕が反対した動機はもう一つあった。夜のコンサートは保護者同伴という規則があったのだが、妻はその時間に都合がつかず、したがって、僕の同伴が必要だった。若い女の子が総立ちで歓声をあげている場に行くのは、僕には気が引けたのである。娘にはこのことも言ったけど、説得に使ったのは、テスト前日という理由の方だったように記憶している。)

 

 大人は、自分で正しいか正しくないかの判断すらせず、大人が決めたことを押し付けていることもある。例えば、校則がそうだ。多くの学校では、子どもを論破できる理論もない校則を強制している。女子中学生から「スカートが嫌だ」という声を聞くことがあるが、理由はいろいろで、「冬寒すぎる」という人もいれば、「自分にはスカートは似合わない」という人もいる。トランスジェンダーの生徒にはスカートを強制すべきでないという考えは広まりつつあるようだが、性自認と関係なくスカートを履くことが苦痛な女子生徒の意見、あるいは、制服を着ること自体が嫌だという意見に対しては、聞く耳を持たない学校が多数派だ。

 

勉強はどうだろう。教師が知っている“正しいこと”を生徒に伝える、というスタイルの授業が多い。本当にそれは正しいのかを吟味するゆとりもなく、授業は進んでいく。授業についていけない人は、考えることを放棄する。授業を抵抗なく理解できる人の多くも、それが本当なのかを自分自身の頭でたどってみる作業を放棄している。いずれにせよ、子どもの“分からなさ”を押さえこんで、“正しさ”を一方通行的に流し込もうとしている。

 

 大人と子どもとの対話が難しい、とよくいわれる。まず、僕たち大人の側に、自分の正しさを疑う姿勢が必要なのだろう。自分の正しさを疑う視点を持てているときには、自分と異なる意見に対して否定的な気持ちにならずにすむ。何かを教えるときにも、自分は本当に分かっているのかを疑う姿勢を持つことができているときは、一方通行的な教え込みにはなりにくい。とはいえ、自分の頭の中だけで考えているときには、自分の正しさへの疑いは生じにくい。自分の正しさから一旦離れてゼロから考えるしかないか、と気づかせてくれるのも、子どもや若者、あるいは、自分と感じ方が異なる人との対話なのだ。

 

 

 

「“半導体”になりたい」

 ある中学生がこんなことを言う。

「私は“無”になりたい。ただ生きてるだけで許されたい。…友達は、“半導体”になりたいって言ってたな。何もしなくても役に立ってるって。半導体、いいなあ!」

 

 “半導体”には笑ってしまった。突拍子もないような言葉で、うまいこと言うものだ。今の自分は、何かをするエネルギーが出ない。でも、何もせずにいるのは肩身が狭い。スマホやパソコンの中で電気の通り道に置かれている半導体のように、いるだけで価値があれればいいのに。それに、心がなければ、気持ちに振り回されることもないだろうに。そんな思いだろうか。

 

 赤ん坊のときは、ただ存在するだけで大切にされただろう。それが、成長につれ、何かをすること・できることを期待されるようになっていく。そして、教育の中では、何かに取り組むことが常に要求される。子どもと大人との関係は、赤ん坊の時の関係のように素朴なものではなくなってくるのだ。でも、子どもが大きくなっても、赤ん坊と大人との関係の中にあった大切なものは見失わないようにしたいと思う。赤ちゃんと大人との関係は、教育にとって何が大切かを分かりやすい形で見せているのではないか。

 

 赤ちゃんのまわりでは、会話の言葉が飛び交っている。赤ちゃんに、大人は話しかける。赤ちゃんが声を出すと大人は反応する。そういう環境や関わりの中で、赤ちゃんは言葉を獲得していく。このとき、赤ちゃんに言葉を覚えさせるためにまわりで喋ったり赤ちゃんと関わったりしているわけではない。ただ、自分たちの生活をしたり、子どもが可愛いから話しかけたり反応したりするだけだ。大人が自分の人生を生きること、子どもに関心を向けて関わり合うこと、それ自体が目的であって、子どもの教育のための手段としてやっていることではない。が、結果として、それが子どもにとっては教育的な環境になる。逆に、言葉を早く覚えさせようという意図をもって大人が乳児と関わっていたら、言葉を獲得していく喜びがしぼんでしまうかもしれない。

 

 これは、例えば、数学を教えるときだって、基本は同じではないか。まず僕たち自身が興味を持って探求すること、面白さや大切さを伝えたいと思うこと、子どもの中でどんな思考が生じているかに反応すること。それができれば、結果として、子どもの中で数学への関心が生じてくる(もちろん、関心の度合いは個人差が非常に大きい)。数学ができるようになることを中心目標においてしまうと、苦手な子にとっては、ただの苦行になる。

 

 結果ばかり追い求めない方がいいのは、教育の話だけではない。絵を描く、本を読む、音楽を聴く、スポーツをする、仲間とおしゃべりする…。どんなことだって、結果としてそれが何かに役立つこともあるだろうが、何かに役立てるためだけにそんなことをやっているわけではない。今、それに取り組むことで自分が生き生きできることに意味があるのだ。

.

 なんでもかんでも先の目的から逆算して考えてしまうと、今が痩せ細ってしまう。大人から先の心配をされていると感じて息苦しくなってしまう子どももいる。子どもは、今を生きればいいし、大人は今の子どもに関心を持てばよいではないか。安心して今を楽しむことができれば、そこから何かが生まれてくるだろうと思う。

「期待に応えられなかった」

 若者たちがこんな話をしていた。

「(うまくいかないことがあって)ずっと落ち込んでいた。親とも友人とも先生とも話をせず引きこもっていた。期待していてくれたのに、期待に応えられなかったから、合わす顔がないと思って」

「え?親はそんなことより子どもが元気な方が嬉しいでしょ。友達だって先生だって、訪ねていけば喜ぶよ」

 

 話を聞いていると、自分の希望がかなわなかったから落ちこんだというだけでなく、いや、むしろ、人の期待に応えられなかったから落ち込んでいるというふうなのだ。自分がどうしたいかよりも、自分がどう思われるかが気になっている、とは言えないだろうか。彼自身、人と話し合うことを通じて、そのことに少しずつ気づいていったようだったが。

 

 ああ、こうやって身動きが取れなくなっていくのか。うまくいかないことがあっても、それが自分の中だけのことと思えれば、気持ちを切り替えるのにこんなに時間がかからなかったかもしれない。でも、人から否定的に見られるのではないかという思いは、本当にやっかいだ。人が自分のことをどう思うかを頭の中だけで考えはじめたら、いくらでもネガティブな想像を膨らませることが可能だし(それは、だいたい、現実とずれているのだが)、人の気持ちは自分にはコントロールできないのだから。

 

 僕自身もそうだったが、多くの人が、人の期待や評価を気にするように育てられてきている。子ども自身が何かをやりたいと思う前に、大人の方が子どもにこれができて欲しいと期待する。子どもは知らず知らずのうちに大人の期待に方向づけられていく。大人の期待が刷り込まれていることを意識できず、それが自分自身の意志だと思い込んでいることも少なくないだろう。そして、大人の期待にそえているときは“自信”を持つことができ、そうでないと“自信”がゆらぐ。それは、“自”信(自分で自分を信じられること)とよべるものなのだろうか?

 

 人の期待に応えられなかったと感じたときは、そもそも期待に応える方向が本当に自分に合っていたのか、本当に自分自身はそれを望んでいるのか、から考えた方がよいのではないか。僕たちは、まわりの期待に応えるために生きているのではない。生き生きと生きられる方向は人によって違うし、自分がどうすれば生き生きできるかは、他の人にはわからない。大人にできることは、子どもが自分自身でそれを探していくのを手伝うことだろう。僕たち大人は、子どもの気持ちが育つ前に先回りして期待をかけることにもっと抑制的であるべきだと思う。

 

 

「自分に厳しくあたっています」

 「自分に厳しいか」というお題で中学生達と話し合っていると、

「自分の行動には甘いです。努力したくありません!でも、心の中では、いつも自分に厳しくあたっています。心の中だけですけど」と冗談ぽく笑って言う人がいた。努力しないけど、そんな自分を責めている、でもやっぱり努力しない、どうしようもないですねえ、といった感じの話を僕も笑って聞いていた。でも、後で考えてみると、どうもこれは自分に甘い面と自分に厳しい面と両方あるというだけの話ではない。自分はダメだという思い込みが努力するエネルギーを奪っている、という話でもあるのではないか。

 

 自分に全く自信が持てず、身動きが取れなくなってしまっている若者と出会ったことがある。聞いてみると、子どもの頃から親に「こんなこともできないようでは、大人になって社会でやっていけない」と叱られ続けていたことが頭にこびりついていると言う。親は発奮させようとして言ったのかもしれないが、思うようにできるようにならなかった本人にとっては「こんなこともできない自分はやっていけない」という気持ちにさせる言葉でもあったのだ。実際には、できないことがあっても、他の面での持ち味をいかしたり、人と補い合ったり、まわりから助けてもらったりして、生きていくことはできる。むしろ、こんなこともできない自分はダメだという思いや、人から助けてもらうことを受け入れられない気持ちが、人を生きづらくする。この若者も、ホームレス支援活動に参加する中で、人とのつながりがあれば生きていける、と実感するようになっていった。

 

 学校では、「勉強は積み上げなので、今きちんと勉強しておかないと、この先の内容が理解できなくなる」などと言って子どもに勉強させようとすることがある。かくいう僕も、数学教師としてそんなことを言った覚えがある。それで頑張る人もいるし、頑張れない人もいる。頑張れなかった人の中には、積み上げることに失敗したように感じて、もう分からないとあきらめてしまう人達たちがいる(本当は、本人がやる気になったら、いつからだって取り返せるのだが)。そういう副作用について、僕も若い頃は十分には気づいていなかった。

 

 今のままではダメだから、この先困るから、と不安を煽(あお)って追い立てる必要があるのだろうか。ものごとに取り組む前向きの理由はいくらでもあるのだ。面白そうだから、できるようになると嬉しいから、自分の世界が広がるから、価値や意味を感じるから、誰かのためになるから、…。ただ、こういう感覚は、まず僕たち大人自身がどの程度実感しているかが問われるし、大きな労力をかけなければ子どもに伝わらない。大人は、自分が追い立てられてゆとりがないと、子どもを追い立てる方向に流されやすい。

 

 努力したくないという人は、今の自分はダメという気持ちが弱いのではなく、むしろ強すぎるのかもしれない。自分がダメだという気持ちが、あきらめを生んでいるようにも見えるのだ。できなくても大丈夫やっていける、でも、何かに取り組めば自分の世界がもっと開かれていく。そういう感覚を持てるといいし、この感覚はいろんな人と関わる中で育っていくものだと思う。

気持ちはどうでもいい?

 若者達がこんな話し合いをしていた。

「やりたくないことがあるとき、どうする?」

「やりたくないことは、やらないなあ」

「学校に関することなら、やる」

「やりたいとかやりたくないとか、そんなこと考えたことなかった」

 …

 

 やりたいともやりたくないとも考えない、そんなことがあるのだろうか。聞いていて僕は一瞬そんなふうに思った。でも、そういえば、僕にも思い当たることがあった。例えば、中学校時代の授業はそうだった。それは朝起きれば顔を洗うとか歯を磨くとかと同じ生活習慣みたいなもので、自分の気持ちを考えるという発想自体が出てこないものだった。

 中学生に「授業は面白い?」と聞いてみると、「普通」「面白いわけでも、つまらないわけでもない」などという返事がかえってくることが多いのだが、授業というのは子どもの気持ちと関係なくどんどん先に進んでいく。

 

 でも、本当は、これは変な話だ。例えば、僕達が何か考えたいことがあって本を読んでいるとき、「〇〇について考えさせられて、面白い」とか、「あまり考えさせられることがなくて、つまらない」などと感想を持つ。そして、もっと読んでみたいとか、もう読みたくない、などと思う。考えることには気持ちがともなうし、逆に、気持ちが動かなければ考えることは難しい。僕達は興味にもとづいて考えるのであって、興味を持っていないことを本気で考えることなどできない。子どもの気持ちと関係なく授業を進めることができるとすると、授業が考える時間になっていないということだ。

 

 ものごとを考えるためには材料となる知識が必要だから、自分の頭で考えるためにも、まずは子どもに知識をきちんと伝達しておくことこそ大切と思っている人もいる。しかし、自分の頭で考えずに“知識”を取り込んでいっても、自分の頭で考えずに“知識”を取り込むという習慣がつくだけだ。それに、“知識”はそれが必要になったときに自分で検索すればいつでも得られものでもある。その“知識”について判断する力、考える力を育てておくことこそ、教育に求められている。授業というのは、知識を伝達する時間である以上に、子どもが考える時間であるべきだ。 

 

 子どもに学んで欲しいことについては、どうすれば子どもが考えたいと思うかを僕たち大人はもっと考える必要がある。だが、それだけではない。僕達大人が学んで欲しいと思っていても、子ども本人が今はどうしても興味を持てないことだってある。どんなことであれ考えるということ自体に意味があるのだと割り切って、今のその人はどんな対象だったら興味を持って考えようとするのか、からスタートしてもよいのだと思う。考えることが好きになれば、結果として興味も広がるし知識も深まっていく。知識を軽視するつもりはないが、子どもの気持ちの動かないところで知識だけ詰め込むより、生き生きと考える時間を大切にすべきだろう。