まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「“半導体”になりたい」

 ある中学生がこんなことを言う。

「私は“無”になりたい。ただ生きてるだけで許されたい。…友達は、“半導体”になりたいって言ってたな。何もしなくても役に立ってるって。半導体、いいなあ!」

 

 “半導体”には笑ってしまった。突拍子もないような言葉で、うまいこと言うものだ。今の自分は、何かをするエネルギーが出ない。でも、何もせずにいるのは肩身が狭い。スマホやパソコンの中で電気の通り道に置かれている半導体のように、いるだけで価値があれればいいのに。それに、心がなければ、気持ちに振り回されることもないだろうに。そんな思いだろうか。

 

 赤ん坊のときは、ただ存在するだけで大切にされただろう。それが、成長につれ、何かをすること・できることを期待されるようになっていく。そして、教育の中では、何かに取り組むことが常に要求される。子どもと大人との関係は、赤ん坊の時の関係のように素朴なものではなくなってくるのだ。でも、子どもが大きくなっても、赤ん坊と大人との関係の中にあった大切なものは見失わないようにしたいと思う。赤ちゃんと大人との関係は、教育にとって何が大切かを分かりやすい形で見せているのではないか。

 

 赤ちゃんのまわりでは、会話の言葉が飛び交っている。赤ちゃんに、大人は話しかける。赤ちゃんが声を出すと大人は反応する。そういう環境や関わりの中で、赤ちゃんは言葉を獲得していく。このとき、赤ちゃんに言葉を覚えさせるためにまわりで喋ったり赤ちゃんと関わったりしているわけではない。ただ、自分たちの生活をしたり、子どもが可愛いから話しかけたり反応したりするだけだ。大人が自分の人生を生きること、子どもに関心を向けて関わり合うこと、それ自体が目的であって、子どもの教育のための手段としてやっていることではない。が、結果として、それが子どもにとっては教育的な環境になる。逆に、言葉を早く覚えさせようという意図をもって大人が乳児と関わっていたら、言葉を獲得していく喜びがしぼんでしまうかもしれない。

 

 これは、例えば、数学を教えるときだって、基本は同じではないか。まず僕たち自身が興味を持って探求すること、面白さや大切さを伝えたいと思うこと、子どもの中でどんな思考が生じているかに反応すること。それができれば、結果として、子どもの中で数学への関心が生じてくる(もちろん、関心の度合いは個人差が非常に大きい)。数学ができるようになることを中心目標においてしまうと、苦手な子にとっては、ただの苦行になる。

 

 結果ばかり追い求めない方がいいのは、教育の話だけではない。絵を描く、本を読む、音楽を聴く、スポーツをする、仲間とおしゃべりする…。どんなことだって、結果としてそれが何かに役立つこともあるだろうが、何かに役立てるためだけにそんなことをやっているわけではない。今、それに取り組むことで自分が生き生きできることに意味があるのだ。

.

 なんでもかんでも先の目的から逆算して考えてしまうと、今が痩せ細ってしまう。大人から先の心配をされていると感じて息苦しくなってしまう子どももいる。子どもは、今を生きればいいし、大人は今の子どもに関心を持てばよいではないか。安心して今を楽しむことができれば、そこから何かが生まれてくるだろうと思う。