まなび場ブログ

若い人たちとの対話

自分を疑う

 「親の考えを押し付けられる」という話を聞くことがある。親と違う考えを言っても聞いてもらえない、と。僕も、「私の意見を最後まで聞かずに論破してくる」と若者から指摘されたことがある。

 

 これは、僕たち大人が、自分の方が正しくて子どもはよく分かっていないのだと思っているときに起こりがちだ。そして、言い争いになると、子どもにはなかなか勝ち目はない。大人の方が理屈にたけていることが多いのだから。でも、本当に僕たち大人の方が正しいのだろうか。

 

 僕の娘が中学生だったとき、夢中になっていたアーティストのコンサートに行こうとしていたのを、僕が反対したので取りやめになったことがあった。コンサートが定期テストの前夜だったので、せめてテストの前日くらいは勉強すべきだと僕が主張したのだ。それは一生に一度の特別なこと、と娘は思っていただろう。そのコンサートがその時の子どもにとってかけがえのないものだったことに僕が気づいたのは、そのアーティストのコンサートに行く機会が一度もないまま娘が大人になった後のことだ。僕は、自分の思春期に、何をおいてもコンサートに行くのだと思えるほど熱中しているアーティストがいなかったから、自分の狭い体験を拠り所に意見を言っていただけだった。(と、書いてみたが、話をわかりやすくしようとして単純化しすぎたようなので、補足しておく。実は僕が反対した動機はもう一つあった。夜のコンサートは保護者同伴という規則があったのだが、妻はその時間に都合がつかず、したがって、僕の同伴が必要だった。若い女の子が総立ちで歓声をあげている場に行くのは、僕には気が引けたのである。娘にはこのことも言ったけど、説得に使ったのは、テスト前日という理由の方だったように記憶している。)

 

 大人は、自分で正しいか正しくないかの判断すらせず、大人が決めたことを押し付けていることもある。例えば、校則がそうだ。多くの学校では、子どもを論破できる理論もない校則を強制している。女子中学生から「スカートが嫌だ」という声を聞くことがあるが、理由はいろいろで、「冬寒すぎる」という人もいれば、「自分にはスカートは似合わない」という人もいる。トランスジェンダーの生徒にはスカートを強制すべきでないという考えは広まりつつあるようだが、性自認と関係なくスカートを履くことが苦痛な女子生徒の意見、あるいは、制服を着ること自体が嫌だという意見に対しては、聞く耳を持たない学校が多数派だ。

 

勉強はどうだろう。教師が知っている“正しいこと”を生徒に伝える、というスタイルの授業が多い。本当にそれは正しいのかを吟味するゆとりもなく、授業は進んでいく。授業についていけない人は、考えることを放棄する。授業を抵抗なく理解できる人の多くも、それが本当なのかを自分自身の頭でたどってみる作業を放棄している。いずれにせよ、子どもの“分からなさ”を押さえこんで、“正しさ”を一方通行的に流し込もうとしている。

 

 大人と子どもとの対話が難しい、とよくいわれる。まず、僕たち大人の側に、自分の正しさを疑う姿勢が必要なのだろう。自分の正しさを疑う視点を持てているときには、自分と異なる意見に対して否定的な気持ちにならずにすむ。何かを教えるときにも、自分は本当に分かっているのかを疑う姿勢を持つことができているときは、一方通行的な教え込みにはなりにくい。とはいえ、自分の頭の中だけで考えているときには、自分の正しさへの疑いは生じにくい。自分の正しさから一旦離れてゼロから考えるしかないか、と気づかせてくれるのも、子どもや若者、あるいは、自分と感じ方が異なる人との対話なのだ。