まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「本の中には私はいないよ」

 ある母親がこんな話をしてくれた。

 思春期の娘が様々な困難から生きづらくなり、身動きが取れなくなっていった。母親は、いろんな人に相談したり、さまざまな会に参加してみたり、本を手当たり次第に読んだりしていた。そんな時、「お母さん、本の中に私はいないよ」と娘に言われて、ハッとした…。

 

 了解できないモヤモヤした状態は苦しいので、僕達は、納得できる説明を考える。自分一人だけで考えても埒が明かないと、人と話したり、本を読んだりする。本を読むことで、自分の考えの狭さに気付かされ、もっと広い視点で現実と向き合えることもある。でも、本を読んで分かったつもりになり、自分自身で悩まなくなってしまうと、見えにくくなるものもある。

 

 子どもが“発達障がい”と診断されて安心した、という親の話を聞くこともある。この子はどうしてこんなことが出来ないのかとイライラしていたのが、“原因”が分かったので気持ちが少し整理できた、ということのようだ。出来るはず、という思い込みから離れることで、今まで見えていなかった子どもの姿が見えてくるかもしれない。一方で、分からないと思って一生懸命考えたり子どもとぶつかったりすることで子どもに伝わるものもある。診断名によって本人の個性を理解したかのように錯覚してしまうと、かえって子どもの姿は見えなくなるようにも思う。“言葉”や“理屈”を知ることで、考える視点を増やしたり、より深く考える手がかりを得られたりするとしても、“言葉”を知っていることと“分かる”こととは、全く次元が異なる。本はヒントを与えてくれるけれど、結局は、自分で困ったり悩んだり考えたりするしかない。

 

 「本の中に私はいないよ」と言う言葉で、彼女は何を伝えたかったのだろう。自分の方をもっと向いて欲しかったのだろうか。理屈を考える以前に、今、苦しくて仕方ない気持ちを受け止めて欲しかったのだろうか。一方、親も苦しかったからこそ、本を読んで気持ちを整理したかったのではないか。でも、この言葉には、もっと深い意味も含まれているようにも思える。日々生きている自分という人間が、他人によってあらかじめ説明されているはずがないじゃないか。そんな感覚もあったのではないか。実はこの話を聞いて20年近く経っているのだが、“こういうタイプの子どもには、こう対応するといい”といった類の言葉を見るたびに、彼女の言葉を思い出す。

「楽しいって分かんない」

 若者が集まっていろいろ話し合っていたとき、こんな会話になった。

A 「楽しいってわかんない。トランプやってても楽しいって思わない。勝ったら嬉しい。」

B「わかるわかる。ゲームとかも達成感だよね。」

A「うん。やってる途中楽しいかっていうと...。」

C「ゲームも始めは楽しいけど、だんだん作業的になっていく。」

D「昔はそうだった。今は、作業的になってきたら、もうやらない。」

E「じゃあ、どんな時楽しいの?」

C「うーん...。あ!今(こうやってみんなと話し合っているのが)、楽しいわ。」

 

 トランプにせよボードゲームにせよ、自分が勝っている間は続けたがるけれど1回でも負けた途端にやめたがる、という子どももいる。勝とうが負けようが、人と一緒にワイワイ遊ぶことが楽しいという感覚が(そして、対戦を重ねていくうちに少しずつコツがつかめてくることを楽しむという感覚も)あんまり無いのだろうか。

 会話の中ではトランプ等について語られていたが、これを他の言葉(例えば、勉強)に置き換えても、彼らの会話は同じように成り立ちそうだ。「勉強やってても楽しいと思わない。テストでいい点取れたら嬉しい。」「勉強とかも達成感だよね。」…。

 

 あるプロ棋士の方が「囲碁の勝負ではAI(人工知能)に勝てなくても、囲碁を楽しむのは人間の独壇場」と述べていた。AIは確かに人間より強いが、AIは囲碁を楽しんではいない。楽しめるのが、人間のすごいところなのだ。「勝ったら嬉しい」「勝てないとつまらない」と結果に一喜一憂するのも人間的なことだけど、結果にとらわれ過ぎると、取り組むこと自体を楽しめなくなってしまう。

 

 楽しさを十分に体験できずにいる子どもや若者の背後には、楽しさを大切にできずにいる大人社会があるのではないか。何かに取り組むとき、“楽しめるか”よりも、“楽しくなくても頑張れるか”の方が大切だと思っている大人が多い。でも、楽しめなくても頑張るという状態は、長続きするのだろうか。勉学やスポーツが “できる”という評価をされていた間は人一倍頑張ってきたのに、自分の“できなさ”とぶつかった途端、何もかもやる気を失なったという人達もいる。一方、何かをずっと継続している人達は、そこに自分なりの楽しみを見出している人のように見える。

 

 教育の世界では、楽しむということの意味を低く見積りすぎているように思う。取り組むことを楽しめるという感覚こそが、人を生き生きさせてくれるし、自分の頭で深く考えたり自分なりの工夫をしたり新しいものを生み出したりする土台ではないか。僕たち大人が子どもに何かを教えるときも、“どうすれば子どもができるようになるか”ということ以前に、“どうすれば子どもは学ぶことの中に楽しみを見出すか”をもっと本気で考えるべきだろう。

 

 

「手軽な成功体験」

 ゲームの魅力について意見を聞いてみたら、それなりにゲームと親しんできた若者がこんなことを話してくれた。

 「ゲームは、手軽で確実に成功体験が得られますからね。現実だったら、A、B、…Zと手順を踏んでいかないと得られないものが、ゲームの中では、簡略に達成できる。達成するためのノウハウも覚えやすい。こうすれば、こうなるって。それに、目標も見えやすいし」。以前、ゲームをやりこんでいる別の若者が「ゲームは自分がやったことに対して必ずすぐに反応が返ってくる。日常生活ではそんなことないですから」と言っていたのだが、それとぴったり重なる。

 

 彼らの非常に的確な説明を聞いて、ゲームの面白さは分かる気がした。同時に、ゲームの外の現実について、考えさせられた。この二人とも、現実ではゲームのように簡単には達成感や手応えが得られないと感じている。僕が最初に感じたことは、子どもが何かに取り組んでいるときに、僕たち大人がきちんと反応を返せていないのかもしれない、ということだ。子どもが取り組んでいることに大人が関心を持って反応を返すことで、子どもは手応えを感じられる。現実生活の中で、そこがなかなかうまく行っていないのかもしれない、と。

 

 でも、よく考えると、現実世界はそんなものだろうとも思える。現実は、もっと複雑で奥行きがある。僕たちがやることに、誰かが反応を返すとは限らないし、何か目に見える成果がついてくるとも限らない。それでも、関心あることであれば、自分なりに工夫してあれこれやってみる時間は楽しい。外からの反応にも励まされるけれど、それがなければ続けられないということもない。大人は、関心を持って子どもを見守ることが大切だが、子どもの自主性が育つにつれて、一つ一つに反応を返すような付き合い方ではなくなっていくのが自然だろう。

 

 いや、本当に現実はゲームとは違うだろうか。ゲーム的なあり方は現実の中に広く浸透しているのではないか。例えば、学校の勉強では、頻繁に褒めたりテストで評価したり、可能な限り隙間なく反応を返そうとする。教室でのPC端末の使い方によっては、この傾向はさらに強まるだろう。美術や工作でも、ゼロから試行錯誤しながらつくるのではなく、限られた時間の中で完成できるキットを使うことが増えているという話も聞く。キットを使えば、うまくできない心配はなく、“手軽で確実な成功体験”が保証されるというわけだ。

 

 困難な課題を単純な作業に分割して、手短に達成感を味わえるようにする。こういう工夫は、子どものやる気を引き出す上で一定の効果がある。僕も、数学が苦手な生徒のために、穴埋めのプリント教材を作ってみたことがある。面白いことに、問題が書いてあるだけだと考えようともしない生徒が、穴埋め問題だと一生懸命取り組み出す。「人間には、空欄を埋めようとする習性があるんですよ」と同僚の教師も笑っていた。でも、これは、誘導されているだけなので、こんなことばかりやっていても、生き生きとした気持ちは湧いてこないし、自分の頭で考える力は育たない。

 

 ある若者は「ゲームは熱中できる。ただ、人が作った世界で熱中させられていると思うと、なんだかね」と言っていた。ゲームは娯楽なのだから、その世界の中にうまく誘導してもらって楽しい時間を過ごせるなら、それでいいのかもしれない。しかも、個々の操作まで誘導されるわけではなく、ゲームの世界の中ではプレイヤーの自由度が高い(だからこそ、ゲームは面白いのだろう)。しかし、教育では、達成感を与えたり褒めたりして誘導していくとき、子どもの自由度(遊び)はきわめて狭くなりがちだ。

 

 何をやりたいか自分の気持ちを見つめたり、自分なりのやり方を探したり、遠回りや無駄や失敗を体験したり、そういう時間が日常の中で削ぎ落とされてはいないか。目に見える成功体験や反応がすぐには得られなくても、何かに取り組む過程を楽しめる、そういう時間を共有していきたい。

問いを育てる

 「大学で何を学びたいか聞いてみたら、自分はこれを学びたい、と言える生徒が多くて、意外でした」と、若手の高校教師が話してくれた。”意外“というのは、日頃のやりとりからは、高校生達が、何かに対して強い興味を持って自分で勉強したり考えたりしているようには見受けられなかったからだ。その先生は、「学びたいことがあるなら、今から学べばいいのに」と思ったという。本当にそうだ、と僕も思う。

 

 生徒にとっては、問題集や参考書での勉強をたくさんやると、テストの点数、したがって、自分の評価につながる。そういうことが勉強の動機になっている。その枠組みから離れてまでも自分で学ぼうというエネルギーのある人は少ない。何を学びたいか聞かれたら答えられる程度にはうっすらと関心があるとしても、今、本気で学びたいというほどでもない、そんな生徒が多いのではないか。

 

 学びたいという気持ちが弱くても、とりあえず目の前の勉強をこなすことが大切と考える人もいる。しかし、受け身の姿勢で情報をどれだけ取り込んでも、自分の頭で考える姿勢がなければ、それは雑多な知識の寄せ集めにしかならない。テストの準備にはなったとしても、それ以上の意味を持ち得るかは疑問だ。深く考えたいという気持ちにそって学んでこそ、知識が自分の中で体系的に編み合わされ意味を持ってくる。

 

 僕は、高校教員だった頃、①分かりやすく解説する、②興味を持てるようにする、③できるようにする、といった優先順位で授業を考えていたと思う。(もちろん、一方的に教えるのではなく生徒が自分で考えることが大切とは思っていた。でも、生徒の思考より、自分がうまく説明する方に意識が向きがちだった。)でも、最近子どもに教えるときは、自分で考えたいという気持ちが子どもの中で育つことを最優先にしたいと考えている。分かりやすく説明すると、子どもの反応は良いが、それが本当に子どものためになるかはまた別問題だ。本当はもっと奥深いことを単純化して分かった気にさせるような解説は、深く考えたいという気持ちを育てない。何が分からないか・何を考えるべきかが明確になっていくような“分かりやすさ”が求められる。

 

 深く考えようとしている人というのは、自分の中に問いがある人だと思う。なんでだろう、どうすればいいのだろう、どういう意味だろう、そういう問いへの答えを求めて考え続ける。強い問いを持っていない人は、なんとなく興味がわいても、本気で自分から学ぼうとまではしない。僕たち大人は、子どもが知識を詰め込んでいるかどうかではなく、問う心が育っているかどうかにこそ関心を持つべきだろう。

「聞いても、答えてくれない」

 「(思春期の)子どもに何を考えているか聞いても、答えてくれない」という声に対して、同じ親の立場から、「子どもが答えてくれないのは、子どものために聞いているようでいて、自分(親)が安心するために聞いているからじゃないかな」という人がいた。そういえば、僕も、子どもが思春期の頃、そういうことがあった。子どもが考え込んでいるのが気になるのだが、聞いても話してくれない。気になるから、こちらも引き下がれない。だんだんと、子どものためというより、僕自分の気持ちの整理がつかないから、聞いているようになっていく。子どもは自分を守ろうとして、ますます黙り込んでしまう。

 

 子どもは、「どうして?」という問いに身構えてしまうこともある。理由を聞く背後に、普通はそうでないという思いが隠されていることがあるからだ。例えば、「どうして学校に行けないの?」という問いの背後には、普通は行けるはずなのに、という思いがないだろうか。問い詰めるような聞き方ではなく、優しく中立的に聞いているつもりでも、子どもは言葉の背後にある否定的なものを敏感に察知する。それに、大人から聞かれても、うまく言葉で説明できないこともある。ちゃんと説明できないこと自体が負い目になる。

 

 子どもに聞いても、答えが返ってくるとは限らない。聞くことで、なんだか気まずい空気になることだってある。そういう予感から、僕たち大人が本当はちゃんと聞くべきことを聞かずに済ましてしまうこともある。しかし、聞くこと・聞かれることは、相手や自分自身を理解していく上で大切だ。子どもに聞いてみなければ大人には分からないこともあるし、子どもにとっては、大人から聞かれることは自分を見つめ直すきっかけにもなる。聞きたいことに今すぐは答えが期待できそうにないのなら、まずは、子どもが話したいことを聞くのがいいように思う。

 

 大人が普通と思っている枠内に子どもがおさまっている間は安心してあまり聞かなかったのに、枠からはずれると、はじめて気になって、自分が納得できる説明を得ようとする。こういうふうでは、うまくいかないのだろう。子どもは僕たちとは全く異なる世界を持っている。その人はどんなことに生き生きとするのか、何を感じ何を考えているか、どんな体験をしているか、どんな個性を持っているか。僕たちの見方を脇に置いて、“その人”から見えている世界を分かろうとできたときに、対話のいとぐちが見えてくるのではないか。

“中和してくれる人”

 ある高校生が語ってくれた話。

 「球技大会で、サッカーに出たんだけど。ゴール前で、わざとキーパーのまん前にボールを蹴ってしまった。勝ちたいという気持ちもあったんだけど、そうしちゃったんだよね。球技大会のゴールキーパーって、サッカーうまくない子がやらされていて、それまでも点を入れられて、みんなからワーワー責められてたから。最後にPKになったんだけど、それも、わざとポストに当てた」

 チームのみんなが「勝ちたい」という気持ちでまとまっていた時に、彼は人の心配をしていたのだ。キーパーの子も、彼がわざとゴールを外したことに気づかなかったかもしれないが、彼がいたおかげで苦痛な時間がちょっぴりラクになったのではないか。

 

 こんな話をしてくれた人もいる。

 「悩みをいろんな人に相談してみたんだけど、みんな『そうだよね』『つらかったね』『わかるよ』って似たような反応をする。いくら話しても気持ちが重いままだったんだけど、『気にしてんじゃないぞ!』って笑ってバーンと肩をたたいてくれた子がいた。それで、気が楽になった。」

 深刻に受け止めてくれる人も大切だが、みんながみんなそうである必要はない。軽く受け流してくれる人もいて、ちょうどよいのだろう。

 

 いろんな子ども達が同じ空間に集まって一緒に時間を過ごしていると、様々なトラブルや衝突が生じる。自己中心的な言動を繰り返してしまった子が周りの子達から批判される、といったこともよく見かける。それはそれで良いことなのだが、全員から責められるだけだと、自分を守ろうとして人の批判を素直に聞けなくなる場合もある。そんな空気になりかかったときに、「〇〇君も、みんなに言いたいことあるんじゃないの?」などと、批判を受けている子に助け舟を出す子が出てくる。すると、それまで不満げな表情だった子が「えっと…。ないです。」と素直に言う。自分のことを考えてくれる人がいることで、自分を振り返る余裕が持てたのだろう。

 

 みんなが同じような方向に塗り固められているとき、ふっとそれに逆らった方向の言動をする人がいる。そのことで、誰かがほっと息がつける。人が集まる場では、こういうことが時々生じる。…こんなことを話し合っていたら、ある若者が、「場を中和してくれる人、ですね」と言う。確かに。試験管に液体を一滴垂らしたら色がさっと変わるように、たった一人のひとつの言動が場の空気を中和することもあるのだ。どんな集団でも、場を中和する役回りを誰かが担うことで、なんとか回っているような気がする。

 ゴールをわざと外した高校生の話に戻ると、彼自身は、相手のことを考えて自分の行動を抑制してしまうという自分のあり方に葛藤をかかえていた。学校生活の居心地が悪かったのだろう、彼は通っていた高校をやめた。多数派に同調しない感性を持った人が集団からはじき出されてしまうのは、集団にとっても損失だと思う。

 

「やればできる」?

「『やればできる』って言ってくる人いるけど、やってもできないんですけど」

「あの言葉、ホントに意味わからん」

中学生達がこんな会話をしていた。うーん。

 

 僕も、「やればできるのに」と思うことはある。それは、子どもに数学を教えてみて、その人がきちんと理解できるという手応えを僕は感じるんだが、本人は「どうせやってもできない」と思い込んでいるようなときだ。ただ、「やればできる」と伝えれば本人はやる気を出すかといえば、そんなに単純なことではないだろう。

 

 「やってもできない」と思っている人は、教えられて理解できたとしても、そこに、「なるほど!」とか、「わかった!」といった心の動きがともなっていないのではないか。だから、「できる」という実感がわかない。そんな無味乾燥なことには気持ちも入らない。結局、できるようにならない。

 

 漢字や英単語を覚えるのに、10回書いて覚えられなければ20回、それでもダメなら30回書けば覚えられるだろうと言う人がいる。本当だろうか。少ない回数で覚えられる人はそこに強い関心を持って気持ちを集中しているのだ。回数のことだけでなく、どうやってそこに意識を向けるのかを考えるべきだし、本人が関心を持てないのであれば、では何になら関心を持てるのかを考える方がいいかもしれない。

 

 「勉強しなくちゃいけないことは分かってるんだけど、やる気がおきない」といった言葉も子ども達からよく聞かされる。「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」と聞き返してみると、「学歴がないと困る」「みんながやっているから」「常識がないと社会に出て恥をかく」「生活に役立つことがある」などと言う。そういう理屈を考えて頑張る人もいるし、そんな理屈ではやる気になれない人もいる。いずれにせよ、「分かっていくのが楽しい」「興味がある」「疑問を解決したい」「考えてみたい」「自分の世界を広げたい」といった気持ちが育っていかなければ、やる気を持続することは難しいだろう。

 

 「やればできる」という言葉は、「やる」→「できる」といった目に見える形のことを述べているだけで、どのような意識や態度でやるのかということついては何も語っていない。人間は、外から何かを機械的に詰め込んでいける入れ物のようなものではなく、自分の関心にしたがって学んでいく。「やればできる」というより、「やる気になればできる」ということだろう。はじめはその気がなくても、やっているうちに自然に関心がわいてくることもある。でも、やり続けても心が全くついてこないことについては、一度立ち止まって、どうすれば関心が持てるのか、あるいは、それはその人にとって今本当にやる必要があることなのか、大人と子どもが一緒に考えてみることが求められる。