まなび場ブログ

若い人たちとの対話

気持ちはどうでもいい?

 若者達がこんな話し合いをしていた。

「やりたくないことがあるとき、どうする?」

「やりたくないことは、やらないなあ」

「学校に関することなら、やる」

「やりたいとかやりたくないとか、そんなこと考えたことなかった」

 …

 

 やりたいともやりたくないとも考えない、そんなことがあるのだろうか。聞いていて僕は一瞬そんなふうに思った。でも、そういえば、僕にも思い当たることがあった。例えば、中学校時代の授業はそうだった。それは朝起きれば顔を洗うとか歯を磨くとかと同じ生活習慣みたいなもので、自分の気持ちを考えるという発想自体が出てこないものだった。

 中学生に「授業は面白い?」と聞いてみると、「普通」「面白いわけでも、つまらないわけでもない」などという返事がかえってくることが多いのだが、授業というのは子どもの気持ちと関係なくどんどん先に進んでいく。

 

 でも、本当は、これは変な話だ。例えば、僕達が何か考えたいことがあって本を読んでいるとき、「〇〇について考えさせられて、面白い」とか、「あまり考えさせられることがなくて、つまらない」などと感想を持つ。そして、もっと読んでみたいとか、もう読みたくない、などと思う。考えることには気持ちがともなうし、逆に、気持ちが動かなければ考えることは難しい。僕達は興味にもとづいて考えるのであって、興味を持っていないことを本気で考えることなどできない。子どもの気持ちと関係なく授業を進めることができるとすると、授業が考える時間になっていないということだ。

 

 ものごとを考えるためには材料となる知識が必要だから、自分の頭で考えるためにも、まずは子どもに知識をきちんと伝達しておくことこそ大切と思っている人もいる。しかし、自分の頭で考えずに“知識”を取り込んでいっても、自分の頭で考えずに“知識”を取り込むという習慣がつくだけだ。それに、“知識”はそれが必要になったときに自分で検索すればいつでも得られものでもある。その“知識”について判断する力、考える力を育てておくことこそ、教育に求められている。授業というのは、知識を伝達する時間である以上に、子どもが考える時間であるべきだ。 

 

 子どもに学んで欲しいことについては、どうすれば子どもが考えたいと思うかを僕たち大人はもっと考える必要がある。だが、それだけではない。僕達大人が学んで欲しいと思っていても、子ども本人が今はどうしても興味を持てないことだってある。どんなことであれ考えるということ自体に意味があるのだと割り切って、今のその人はどんな対象だったら興味を持って考えようとするのか、からスタートしてもよいのだと思う。考えることが好きになれば、結果として興味も広がるし知識も深まっていく。知識を軽視するつもりはないが、子どもの気持ちの動かないところで知識だけ詰め込むより、生き生きと考える時間を大切にすべきだろう。