まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「記憶がなくなっちゃうんだったら…」

「いつか死んで記憶も全部なくなっちゃうんだったら、生きてる意味ないことない?」

ある若者からこう問われたので、

「今生きて何かを感じていることに、意味があるのでは。記憶が残ることに、ではなく」

と僕は応えた。死についてどう思うかは、人によって様々だ。ここでは、記憶がなくなる、という話から連想したことを書いてみたい。

 

 “思い出作り”という言葉があるが、この言葉に僕は昔から違和感を持っている。あとから振り返っていい思い出になるために今何かをやる、それで今を生きていることになるのか。先のことを考えてしまっている時点で、今に没頭できていないのではないか。そんなふうに感じる。これは写真を撮るという行為にも感じることで、人に伝えるために写真を撮ることはあるけれど、自分の思い出のために撮りたいとは、僕はあまり思わない。

 小さい子どもは、先のことではなく今に没頭している。今やっていることを後からどう思うかには意識が向いていない。でも、成長するにつれ、この先〇〇できるためには今△△をやっておかねば、という考え方に慣れ親しんでいく。“思い出作り”という発想は、このように先から逆算して今を考える習慣とどこか繋がっているように感じてしまうのだが、どうなのだろう。

 

 今ではなく先のことを考えるあり方を、大人は子どもに教えようとする。僕が中学教師だった時、ある教師が全校生に「中学時代は、将来のための準備期間。今はやりたいことを我慢して頑張るべき」という話をしたことがあった。学校ではよく聞く話なのだ。この時、ある生徒が「あの考え方はなんか違うと思います」と僕に声をかけてきた。スポーツに打ち込んでいる生徒だった。「将来の準備のためだけに今があるわけじゃないよね」と僕が言うと、彼は、その通り、という顔をした。今、そのスポーツをやりたいから、やっているのだ。先から逆算して、あとで何かに役立つからやっているのではない。将来から逆算して将来に役立つことをやるという発想が強過ぎると、自分が本当にやりたいことを見つけそこなわないか。

 

 大人は若い人に先のことを考えさせようとし過ぎてはいないか。そんなことよりも、まず、今を生き生きと生きることを手助けすることが先決ではないか。今を充実させていけば、結果として、先の可能性も広がっていくだろうし、思い出も蓄積されていくだろう。でも、先のために今があるのではない。仮に将来の役にたたなくても、あるいは、いつか死んで記憶が消えても、その時生き生きと生きたことに意味がある。