まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「期待に応えられなかった」

 若者たちがこんな話をしていた。

「(うまくいかないことがあって)ずっと落ち込んでいた。親とも友人とも先生とも話をせず引きこもっていた。期待していてくれたのに、期待に応えられなかったから、合わす顔がないと思って」

「え?親はそんなことより子どもが元気な方が嬉しいでしょ。友達だって先生だって、訪ねていけば喜ぶよ」

 

 話を聞いていると、自分の希望がかなわなかったから落ちこんだというだけでなく、いや、むしろ、人の期待に応えられなかったから落ち込んでいるというふうなのだ。自分がどうしたいかよりも、自分がどう思われるかが気になっている、とは言えないだろうか。彼自身、人と話し合うことを通じて、そのことに少しずつ気づいていったようだったが。

 

 ああ、こうやって身動きが取れなくなっていくのか。うまくいかないことがあっても、それが自分の中だけのことと思えれば、気持ちを切り替えるのにこんなに時間がかからなかったかもしれない。でも、人から否定的に見られるのではないかという思いは、本当にやっかいだ。人が自分のことをどう思うかを頭の中だけで考えはじめたら、いくらでもネガティブな想像を膨らませることが可能だし(それは、だいたい、現実とずれているのだが)、人の気持ちは自分にはコントロールできないのだから。

 

 僕自身もそうだったが、多くの人が、人の期待や評価を気にするように育てられてきている。子ども自身が何かをやりたいと思う前に、大人の方が子どもにこれができて欲しいと期待する。子どもは知らず知らずのうちに大人の期待に方向づけられていく。大人の期待が刷り込まれていることを意識できず、それが自分自身の意志だと思い込んでいることも少なくないだろう。そして、大人の期待にそえているときは“自信”を持つことができ、そうでないと“自信”がゆらぐ。それは、“自”信(自分で自分を信じられること)とよべるものなのだろうか?

 

 人の期待に応えられなかったと感じたときは、そもそも期待に応える方向が本当に自分に合っていたのか、本当に自分自身はそれを望んでいるのか、から考えた方がよいのではないか。僕たちは、まわりの期待に応えるために生きているのではない。生き生きと生きられる方向は人によって違うし、自分がどうすれば生き生きできるかは、他の人にはわからない。大人にできることは、子どもが自分自身でそれを探していくのを手伝うことだろう。僕たち大人は、子どもの気持ちが育つ前に先回りして期待をかけることにもっと抑制的であるべきだと思う。