まなび場ブログ

若い人たちとの対話

我“慢”

 子どもは、我慢することを常に求められる。確かに、我慢がきかないと社会生活が難しいことがある。でも、我慢ばかりしていると、その人の生き生きしたものが失われることもある。

 我慢についていろいろ考えていたとき、新聞のエッセー*1で、我慢という言葉は、もともと我“慢”という字の通り、自分への慢心・思い上がりの心という意味だったことを知った。それが、どうして僕たちが使っているような意味になったのだろう。

 

 もしかすると、こういうことではないだろうか。僕たちが何かを我慢しているときは、自分の本当の気持ちにそむいている。一方、慢心しているとき、自分が抱えている課題から目をそむけている。どちらも、本当の自分に嘘をついているところが繋がっているようにも思える。

 このことを妻に話してみると、妻は「『私は我慢してる』って思ってること自体、頑固に自分を変える気がないってことだったりするよね」と言う。なるほど。

 我慢して人に合わせているときには、心の中では相手が間違っていて自分が正しいと思っている。相手の考えに正しいところがあると気づいて受け入れるのは、我慢とは違う。自分の考えをきちんと主張した上で折り合いをつけているときも、我慢していると思わないものだ。自分と相手との関係を何も変えようとせずに「私は我慢している」と思い続けている時点で、自分の考えへの慢心のようなものがあるかもしれない。

 

 はじめは我慢しなければならないことでも、本当にやらねばならないと納得できれば、やっているうちに我慢という気持ちは薄れていく。いつまでも我慢という気持ちが残るときは、自分の気持ちに執着してしまっているか、あるいは、そもそも我慢すべきではないことを我慢しているのかのどちらかかもしれない。いずれにしても、自分と相手との関係を変える努力を怠っている。もちろん、我慢し続けざるをえないことだってある。だとしても、なんとか我慢という状態から抜け出す道を探して、あがいてみたい。状況を変えようとあがいている限り、ただじっと我慢しているのとは違う。

 

 人間関係が対等でないときには、弱い立場の人間が我慢を強いられることも生じる。子どもと大人の関係がそうなりがちだろう。何かを乗り越えるために、大人が子どもに我慢を教えるべきときはある。でも、子どもがその意味を納得できず、ずっと我慢し続けているだけだとしたら、それで人を育てているといえるのだろうか。我慢することの中にも慢心があるが、人に我慢を強いることの中にはもっと大きな慢心がある。

 こうやって考えてくると、我慢に“慢”という文字が入っていることが、しっくりしてきた。僕たちは、我慢したり我慢させたりすることに安住せず、自分や相手ともっと向き合うべきだろう。 

*1:石井遊佳「書くことのススメ」2021. 1.22中日新聞

納得できなくてもよい?

 ある中学生が、納得できない校則について疑問を言ったら、「信号は守らないといけないでしょう、それと同じ」と先生に説明されたと言う。信号を守らないと危険や混乱が生じることは誰でも納得できるから、納得できない校則を守ることとは全く話が違うのだが…。ここにあるのは、納得など問題ではなく、ルールを無条件に守る態度を身につけることが大切という考え方のようだ。別の若者は、「社会に出たときに、いろんな理不尽なことがあるけどちゃんと我慢できるように、そういうことに慣れさせるために校則があるのかとずっと思ってました」と言う。皮肉でもなんでもなく、本当にそう思っていたのだと。

 

 「方程式が解けて、何かの役に立つんですか?」と聞かれることがある。「科学を学ぶときに役立つ」とは言える。ただ、これでは、「科学を学んで、何かの役に立つのですか?」と問い直されるだけかもしれない。僕たちは日常生活に役立てるためだけに学ぶわけではない。何かを考えて頭をひねる過程が面白いのだし、分からないことがあったときに自分の頭で考えようとする態度や考える力を身につけることこそ、子どもの時から学んでいくべきことだ。方程式の解き方を知っていることが役立たなかったとしても、方程式を解こうとして考えるという体験は生きる。これは、例えば、サッカーの練習を一生懸命することが、サッカー選手にならなかったとしても意味を持つのと同じだ。でも、学校では、結論を導くまでの自分で考える過程はあまり大切にされず、結論を知っていることが評価される。結論を知っていることがそんなに大切か、と問いたくなるもの自然なことだ。

 

 校則と勉強のあり方、二つの問題を書いたのは、根っこで繋がっていると思うからだ。どちらも、子どもが自分の頭で考え納得する過程が大切にされていない。学校生活のルールについていえば、一人ひとりの子どもに対して、日々、具体的な状況の中で、どうすべきか、どうすべきでないか、いちいち考えたり、話し合ったり、説明したりすることは手間も暇もかかる。そんな余裕はないということで、規則やルールに頼って一律に指導するようになっていく。でも本当は、そういう手間暇をかける過程にこそ教育的な意味がある。勉強も同じで、分からない中で右往左往しながらみんなでアイデアを出し合って考えていくという過程こそ面白く意味があるのに、そんなことに付き合っている余裕がないので、効率的に結論を教え込む方向に流されている。

 

 最近、学校で“主体的な学び”が強調されるようになった。それは、分からないことについて自分の頭で考えようとする姿勢を育てる、ということではないのか。もしそうならば、子どもが納得できない校則を押し付けることとは決して両立できないはずだ。あるいは、いちいち指図しなくても子どもが“自主的”に勉強することを“主体的”と言っているだけなのか。

 校則問題は、子どもの権利侵害という切り口から議論されることも多い。それだけではなく、自分の頭で考える人間を育てるという視点からも議論すべきだろう。

 

「子どものため」

 親から意見されるとき「あなたのために言っている」と言われるのが嫌、という話を聞くことがある。押し付けがましく感じるのだろう。親と子どもとは別の人間なのだから、親が「あなたのため」と思っていても、子どもにはそう感じられないことだってある。親の方では、子どもにはその時そう感じられなくても、長い目で見るとそれが「あなたのため」と考えているかもしれない。ここは、どちらかが意見を押し付けるのではなく、何が本人のためになるのか、一緒に考えるしかない。でも、「あなたのため」という言葉は、時として、「あなたのために言っているのだから、あなたは聞かなければならない」と子どもの反論を封じる言葉として使われる。だから、嫌がられるのだろう。

 

 あるいは、子どもはもっと違うことも感じているかもしれない。かつて勤めていた高校で、生徒を過剰に追い立てる指導をする教師が「生徒のためにやっています!」と主張するのを聞いて、「生徒のため、カッコ、ジブンノタメ、だな」と苦笑していた同僚がいた。どんなことであれ、自分からやっている以上、「自分のため」でもあるといえる。誰でも、自分が納得したい、自分が居心地良くありたい、あるいは、自分の評価が気になる、といった「自分のため」の気持ちもある(それがどの程度かは、人によって大きく違うだろうが)。大人がそういう「自分のため」にきちんと目を向けていないとき、敏感な子どもは「カッコ、ジブンノタメ、でしょ」と思うのではないか。

 

 本当は、とりたてて「子どものため」なとど考えず、「自分がそうしたいから自然にやっているだけ」のことが子どものためになっている、というのが一番いいような気もする。親が赤ん坊をあやすときがそうだろうし、動物だって、家族や仲間のために行動するように見えるけれど、別に誰かのためなどと考えてはおらず、自然に相手に気持ちを向けているだけだろう。とはいえ、僕たち人間には、「誰かのため」を意識的に考えなければ、つい自分のために行動してしまう面もあるし、思い込みから、ずれたことをやってしまうこともある。だから、何が「子どものため」になるかを考えることが求められる。

 

 大人が子どもに何かを求めるとき、それは本当に「子どものため」なのか、大人の側の「カッコ、ジブンノタメ」が隠されていないか、まず僕たち大人が自分の動機を吟味するよう心がけたい。そのようにして、何が・どうして・どのように「子どものため」なのかを丁寧に考えたことであれば、子どもにもちゃんと伝わるように思う。

 

 

自分で考える

 「ギターとベースをやってます」いう中学生に、「習ってるの?」と聞くと、首を横に振って「弾き方を人から教えられるのはイヤなんです」「いい弾き方を自分でみつけたいから、いろんな人の演奏を動画サイトで見て研究してますよ」という。人から教えられるのではなく、自分でやってみたいのだ。こういうのを“主体的”というのだろう。

 

 数学の問題を考えあぐねている子どもに「ヒントを出そうか?」というと、「まだダメです!」という反応が返ってくることがある。こういう時は、問題が押しつけられたものではなく、その子自身が考えたいものになっている。この時点で、教育はある程度成功している。でも、こうなるときばかりではない。「早く説明してください」と言われることもあるし、そもそも問題に関心を持たない子もいる。

 

 以前、高校で数学を教えていた頃、僕が授業について一番考えていたことは、「どうすれば授業に興味をもつか」と「どう説明すれば分かりやすいか」だった。これらも大切なことではあるが、今は、「どうすれば、子どもが自分自身で考えようとするか」こそが大切だと思っている。人の話を聞いて「あ、面白いな」とか「分かった」と思っても、自分の頭できちんと考えなければ、それは知識を外からペタリと貼り付けただけで、本当にはその人のものにならない。自分の頭で考えて、はじめて、それを学んだといえる。

 

 「考えるのは、めんどくさい」と言われることもある。それは、考えても分かる気がしないからではないか。僕達が考えてみたいと思うのは、問題に関心があって、しかも、考えれば何かが見えてきそうだという感覚を持てるときだろう。教師が分かりやすい説明をすべきなのは、それで相手を分かった気にさせるためではなく、考える手掛かりをくっきりさせることで、考えたら分かるかもしれないという気持ちが持てるようにするためともいえる。

 

 子どもでも大人でも、「考えたい」と思える課題を自分で見つけることもあるが、人から問いかけられて、考えるべき課題に気づくこともある。授業では、教師が子どもに問いかける場面も多いが、さて、子どもが本気で考えるための問いかけがどれだけなされているだろうか。クイズ的な関心を引くため、緊張感を維持するため、あるいは、子どもの理解を試すための問いも多いのではなかろうか。本当の問いは、クイズのように即答できるものではなく、「うーん…」と考えこんでいくきっかけになるものだろう。

 

 音楽のように、まわりに情報があふれているものは、子どもが学びたいものを自分で選んでいくこともできる。一方、数学や科学のような文化は、そこにどんな世界があるのかを大人が意識的に知らせていかなければ、その世界の存在自体に気づかない子どもも多い。だから教育が必要なのだが、多くの人にとって生きていく上で本当に意味を持つのは、誰かが考えてたどりついた結果についての知識よりも、自分で考えるという体験の方だろう。

「興味が持てない」

「学校の勉強には興味が持てない」という声をよく聞く。

 勉強なんてそんなものだ、興味に関係なく頑張らねばならないのだ、と思う人もいる。一方、教師に聞けば、興味は大切だと言うだろう。でも、学校で興味は本当に大切にされているだろうか。

 

 僕が学校で数学を教えていたときを振り返ってみる。新しい内容に入る前には、これから学ぶ内容に興味を持てるように、具体的で身近な問題を取り上げる。でも、内容の学習に入ってしまえば、生徒の興味を育てることより、問題が解けるようになることの方に意識が傾いていく。

 興味を育てるということは、自分自身の頭で問題を掘り下げていきたいという気持ちを支え育てることだろう。そのためには、本人が考えたいと思うことに大人がつきあうことが求められる。今の学校では、これはなかなか難しい。決められた内容を決められたペースで教えることが優先されがちなのだ。

 興味が大切というとき、それは決められた勉強をさせるため(もっとハッキリ言うと、テストの点を上げるため)の動機付けとして大切という意味なのか、何かに興味を持つこと自体に(目の前のテストの点は上がらなくても)価値があるという意味なのか、問うてみることが必要だろう。

 

 僕は子どもに対して、ものごとに興味を持って欲しいと思っている。興味の対象は、学校の勉強でなくてもよい。ものごとに興味を持つことは、今、気持ちが生き生きとすることであるし、自分の世界を広げていくことでもある。興味を持つこと自体に価値があるのだ。

 もちろん、興味を持つことと学ぶことは表裏一体、同時進行していくものでもある。漢字や英単語の暗記のような単純な勉強ですら、興味を全く持てない人が機械的に書く作業を繰り返しても、あまり頭に入らない。ましてや、数学や科学のように論理を積み上げていく学習では、その過程に興味を持てなければ、学ぶことは困難だろう。なんらかの興味があるから、考える。興味が全くないことを本気で考えることなんてことは無理ではないか。

 

 すでに持っている興味を深く掘り下げていくだけでなく、視野を狭くしないことも大切だ。高校時代に先生から「専門書が並んでいる大きな書店に行っていますか?書棚を見回すだけで、自分が知らないことがこんなにあるんだって気づかされます」と言われたことを今でも思い出す。多様な人間と出会える場に身をおくことも、自分が知らない世界に触れるきっかけになる。

 何かに深い興味を持っている人と関わると、その人の影響で同じ対象に興味が生じることもあるし、ものごとに興味を持つという態度自体から刺激を受けることもある。興味というのは、人から人へ伝染していくようなところがあるのだ。そのような人と人との関わりを大事にしたいと思う。

子ども同士の関係が持つ力

 ゲームを一旦やり始めると、話し合いの時間(ゲームは切る約束になっている)になっても、まわりの子からやめるよう言われても、やめようとしない子がいた。みんなから言われ続けて最後には渋々ゲームを切るのだが、次の日もまた同じことを繰り返す。そういうことを繰り返しているうちに、変化が生じてきた。といっても、それは当人にではない。やはりゲームが大好きで、ゲーム時間についての約束事を守ことが難しい別の子がいたのだが、その子が時間になったらさっさとゲームを切るようになっただけでなく、やめようとしない子に「いい加減やめなよ」と声をかけるようになったのだった。

 

 人から注意されたとき、それを素直に受け止めにくいことは誰にでもある。とっさに自分を守ろうとする気持ち、あるいは相手への反発が生じてしまって、自分を振り返ることを妨げる。でも、自分と同じような行動をしている人が近くにいると、その行動が外からどう見えるかがよく分かる。そして、自分の行動も同じだと気づく。こういうところにも、子ども達が集まって一緒に過ごすことの意味がある。

 

 こんなこともあった。みんなで遊んでいるときに、いつもルール違反やズルをする子がいた。注意しても聞く耳を持たないので、まわりの子達はだんだんと一緒に遊ぶことを嫌がるようになっていった。その子への個人攻撃のようになりかけたとき、「お前の態度はいかん。本当になんとかしろ」と当人を叱った上で、まわりの子達に向かって「お前らももっと違う言い方があるだろ!」と、たしなめた子がいた。まわりの子たちもハッとした様子だったし、みんなから注意されても知らんぷりだった子も真剣な表情になった。言葉が抵抗なくみんなにすっと入ったのは、これを言ったのが大人ではなく自分たちの仲間であったからだろう。

 

 子どもは、子ども同士で刺激を受けたり揉まれたりして育っていく。でも、子ども達の関係が持つ力を信用できず、子ども同士の間で批判しあったり調整しあったりする動きが出る前に大人が口出ししていることも多い。子ども達もそれに慣れっこになってしまい、例えば学校の中などでは注意する役割は教師に任せようとするような傾向もあるのではないか。これでは、子ども達の中で問題を解決していく力が育っていかない。勉強でも同じことが言える。子ども同士で聞きあったり一緒に考えたりする暇も与えず大人がどんどん教え込み過ぎていないか。

 大人が介入したり教えたりすべきこともあるし、子ども同士の関係に任せておいた方がいいこともある。子どもの様子を見ながら、その境目を探り続けることが大切なのだと思う。

「自分のホンネを自分で分かるか」

 どうすれば人とホンネで話せるか、高校生達と話し合ったことがある。

「ホンネを言えなくてストレスがたまる」「ホンネを言うと、かえって、相手からの反応でストレスがたまる」などという話が出ているとき、一人が「一番大きいのは、自分のホンネを自分で分かるかっていう問題」と言いだした。「例えば、どんなこと?」と聞くと、「自分が欲しいと思ってたけど、ただみんなが持ってるからそう思ってただけとか」と言う。

 

 そんなことに気づいているのはすごいな、と僕は思った。というのは、僕自身は高校生の頃、そういうことに鈍感だったからだ。当時の僕は自分がやりたいことを分かっているつもりだったし、自分の進路も自分で考えて選んだつもりだった。親が僕に期待していたことを自分自身の考えと思い込んでいた部分があったということは、随分後になってから、だんだんと気づいてきたことだ。

 

 若い人から「自分が何をやりたいか分からない」と言われることがある。それは考えるべき問題だ。ただ、こう言っている人は、少なくとも、“自分が何をやりたいか分からない”ことは分かっている。そして、自分が何をやりたいかを考えはじめている。一方、自分が何をやりたいか分かっていると思っている人は、どうだろうか。この中には、本当に自分のことを分かっている人だけでなく、みんながやっているから自分もやりたいと思っているだけの人、人が自分に期待することを自分がやりたいことと思い込んでいる人もいるのではないか。

 

 ホンネというのは、頭で考える以前に、自分のからだやこころが感じていることだろう。そして、教育では、ホンネは大切にされていないように見える。何をやりたいか・何をやりたくないかは大切にされず、自分の気持ちを抑えて頑張ったり我慢したりすることが一面的に追求されている。でも、人は、本当にやりたいことなら頑張れと言われなくても本気になれる。頑張れるようになりたいのであれば、まず自分が何をやりたいかに気づくこと大切だろう。また、やりたくなくても我慢すべきことはあるが、我慢が先行してやりたくないという自覚すら持てなくなってしまうと、どこかで無理が生じる。

 

 誰だって小さい時はホンネを言っていたのだろう。やりたいことをやりたいと言い、欲しいものを欲しいと言い、嫌なことは嫌だと言う。でも、“教育”の力によってだんだんそんなことは言わなくなってきただけでなく、自分でもホンネが分からなくなってきてはいないか。子どものホンネが社会に通用しないと大人が思うなら、タテマエで押さえ込むのではなくて、大人のホンネ(本当に思っていること)をきちんと伝えればよい。子ども同士もホンネでぶつかりあえばよい。ホンネをきちんと自覚した上で、それとどう折り合いをつけるかを考えていけばよいのだ。僕たち大人は、もっと自分自身の、そして若者のホンネと向きあうべきだろう。