まなび場ブログ

若い人たちとの対話

やる気を失う

 「何に対しても、やる気がなくなった」と言う人がいる。話を聞くと、やる気を持って頑張っていたことがあったのだが、思うように成果が出なかったようだ。結果が出ないことで、そのことに対する気持ちがさめるということはあるだろう。しばらく何もやりたくないということも、分かる。でも、そういうことではなく、すべてのことに対してやる気を持てない状態が続いているのだ。

 

 人間関係を含め、いろんなことがあったのだろう。とはいえ、取り組む中で自分が得たものがあったと実感できていれば、こんな風にやる気を喪失することはなかったのではないだろうか。それは、例えば、工夫したり試行錯誤したりすることの面白さ、人と協力して何かをやることの楽しさ、自分をコントロールする力をつけることの充実感といったものだ。そういうものが得られなかったとすると、それはどうしてだろうか。

 

 若い人がやる気を失うことについては、大人にも大きな責任があると僕は思っている。子どもが自分で考え時間をかけて試行錯誤するのを励ますのではなく、すぐ目に見える成果を出せるよう、小手先のやり方を安易に教えはしなかったか。内面に何が育っているかではなく、できるようになったかどうかばかりを気にしてこなかったか。こういうことを続けていると、表面的にはできているように見えても、内面がともなっていないので、どこかで息切れしてしまうかもしれない。

 

 以前、将棋の棋士に弟子入りした小学生を取材した番組を見たことがある。その棋士は、弟子に将棋の打ち方を教えない。その理由を聞かれると、「私が教えてしまったら、私を超えられない」と言う。で、小学生の弟子だが、ここで何を学んでいるのかと聞かれて「将棋に対する姿勢を学んでいます」と答えていた。

 そもそも、大人が子どもに対して“できるようにさせる”と考えるのが、ずれているのかもしれない。子どもが自分で“できるようになろうとする”しかない。そのような気持ちはどうやったらわいてくるだろうか。

 

 やりたいという気持ちをもった人と接するだけで、人は刺激を受ける。僕たち大人自身が、自分がやりたいことをちゃんと追求していることが大切だし、子どもが様々な人と関われる環境を整えることも大人の責任だろう。

 でも、僕たち大人がもっと大切にすべきことは、大人の側の“こうなって欲しい”という期待に子どもが応えたら喜ぶのではなく、子どものあり方が子ども自身の気持ちにそっていること自体を喜ぶという態度かもしれない。そのような大人の態度から、子どもは自分の気持ちを大切にすることを学んでいくだろうから。

 

 

 

「何がしたいのか聞いて欲しかった」

 中3 の進路選択を機に、突然、身動きが取れなくなり、学校に通えなくなった人がいた。それまでは大人から言われた通りに生きてきて、はじめて、これから先のことを自分で選びなさいと言われ、どうしていいか分からず身動きがとれなくなったと本人は言う。この人に、「今まで親にどうして欲しかった?」と聞くと、「何がしたいのかを聞いて欲しかった」と言う。小さい時から少しずつ自分で考えて判断する力を育てて欲しかったということだ。

 

 僕自身、「自分は、子どもだった時、大人にどうして欲しかっただろうか」と考えることがある。子どもの頃の僕は、「ちゃんと自分で考えている」と思っていたのだが、この“自分の考え”というやつは、実は、まわりの大人の考え方を自分でも気づかないうちに取り込んだものだったりする。でも、そんなことに気づかず、僕は子ども時代をぼんやりと過ごしていた。「そう考えるのはどうして?」と深く問われることがあれば、もっと早く自分の内面を問い直すようになったと思う。大人は、子どもにもっと問いかけるべきではないか。

 

 問いかけても、子どもがすぐに自分自身の言葉で話せるとは限らない。

 ずいぶん前のことなのだが、学校に行けなくなった中学生に、そのきっかけを聞くと、「人間関係がうまくいかなくなったので」と言う。彼女はほぼ毎日「まなび場」に通ってきて、そう深刻な話をするでもなく、のんびり過ごしていた。何ヶ月か通ってきたある日、僕といつものように雑談しているときに、学校に行けなくなったのはイジメのためだったことを初めて話してくれた。

 

 個人の内面にかかわる話ができるようになるには、それなりの信頼関係も必要だろうし、本人が自分自身を見つめてそれを言語化する力が育っていることも求められる。日常生活の中で、なんでもないような当たり前の時間を一緒に過ごしたり、自然に言葉を交わしたり、といったことが積み重ねられた上でなければ出てこない言葉もある。それに、時間の経過の中で子どもの考えも変化していく。

 問いを投げかけることによって、相手が自分で考え始めることに意味がある。相手に問いかけつつ、答えをすぐに返してもらうことを求めるというよりは、時間をかけて一緒に考えていくことが大切だろう。

はっきり言う

 いつも、相手のことにお構いなく自分の関心事だけを一方的にしゃべる子がいた。
話し合いの時間に、この子が「うまく人と接するにはどうすればいい?同年代との付き合いが難しい」と切り出した。すると、別の子がすかさず、「あんたは自分の話を聞いて欲しいだけでしょ。大人は聞いてくれるだろうけど。僕らにそれを求めても…」と応じた。自分の問題を指摘されて、この子は「むかつくな!」と言い返したのだが、何か考えこむような表情をしていた。

 相手の立場にたって考えることが苦手な子どもに対して、面倒臭いので関わらないという子もいるし、きつく非難する子もいる。他方で、話を“聞いてあげる”という大人の態度をとる子もいる。でも、このように、問題をずばりと指摘をしてくれる子はあまりいない。このときのやり取りを見ていて、オブラートに包まずはっきりと言った言葉は、ちゃんと相手に伝わるとあらためて感じた。(言ったのが大人ではなく、対等の立場の子どもだったことにも意味がある。)

 海外(たしか、カナダだったと思うが)の子育てを視察してきた人から、こんな話を聞いたことがある。公園で、幼児が自分のオモチャで遊んでいる。他の子がそれで遊びたがって、オモチャの引っ張り合いになった。オモチャの持ち主の母親がどうしたかというと、自分の子どものところに行って、「相手にはっきりNOと言いなさい」と幼児を諭したのだという。「仲良く一緒に遊びなさい」などとは言わないのだ。自分の思いをきちんと主張できるようになることがまずは大切であり、人に気を配るのは、その次の課題と考えられているのだろう。

 自分が本当に思っていることを遠慮せずに言う。ここからしか、相互理解は始まらない。でも、こういう基本的なことが僕たちにはなかなか難しいときがある。波風が立つことを恐れて言えないということもあるが、それだけではない。自分が何を感じているかを自分の言葉で表現するという“訓練”が不足しているので、自分が漠然と感じていることをうまく言葉にできなかったり、そもそも自分が何を感じているかに鈍感になっていることもあると思う。

 子ども達は、我慢や協調性の大切さは教えられているが、自分の本当の気持ちを自分の言葉で言うということの大切さをどれだけ教えられているだろうか。自分自身の気持ちを言っていいというと、子どもは自分勝手なことを言いいだすのではと心配する人もいるだろう。ならば、言われた相手も自分が本当に思うことを自分の言葉ではっきりと言えばよい。それぞれが本当に思っていることを擦り合わせて行く中で、互いを、そして自分自身を、少しずつ理解していくしかない。

すぐに反応が返ってくる

 ゲームが趣味という若者に、ゲームの魅力について聞いたことがある。

「ゲームは、自分がやったことに対して、必ず、すぐに反応が返ってくる。日常生活の中では、そんなことはないですからね」と彼はいう。

 なるほど、この説明はよく分かる。それにしても、現実生活の中ですぐに反応が返ってこないとはどういうことか、考えさせられる。子どもが、手応えを実感しにくいことばかりやらされているのか。また、僕たち大人が子どもに適切な反応を返せていないのか。

 

 一方で、はっきりした反応がすぐ返ってこなくても楽しめることもあるのでは、とも思う。誰だって、小さいときには、ただ無心に絵を描いたり体を動かしたりしていたのではないか。じっくり時間をかける中でこそ実感できる手応えというものもある。

 

 最近は、分からないことも、スマホやパソコンですぐに検索でき、ピンポイントで答えが見つかる。これは、僕も重宝している。ただ、断片的知識を手に入れること自体は、すごく楽しいというものでもない。「あ、面白い!」と強く感じたりワクワクしたりするのは、バラバラだったりモヤモヤしていたことの中から、つながりが見えたときだったりする。体系的に書かれた本を読んだり、時間をかけて考えたり、人とああでもないこうでもないと議論したりしてこそ、こういう面白さを体験できる。

 

 時間をかけるということで、話が飛ぶのだが、思い出すことがある。私立中学で教員をしていたとき、修学旅行の行き先が北海道だった。生徒達と一緒に飛行機に乗って、1時間半ほどで北海道に着いてしまったとき、これでは子ども達が可哀想ではないかと思った。僕は、大学生の夏休み、名古屋から長時間列車を乗り継いで北海道まで旅をしたことがある。高校生の時にラーメン屋に貼ってあったポプラ並木の写真を見てから、北海道に絶対行こうと思っていたのだ。そして、夜、青函連絡船で真っ暗な海を渡ってはじめて北海道にたどり着いた時、遠いところにはるばる来たという感慨があった…。こんなふうに飛行機であっという間に着いてしまったのでは、遠くの地にやってきた感覚を味わうことができないじゃないか。

 

 反応が早いゲームの面白さだけでなく、パッと反応が返ってこないことの中にある面白さも、子ども達にはもっと知って欲しい。それを伝えることも、僕たち大人の責任だろう。そして、こういうことを子どもと一緒に考えていくという作業自体が、ここで書いてきた通り、時間がかかり、そして、面白いことなのだ。

「しんどそうだなあ」と思えるかどうか

 仕事で東南アジアに出掛けていた娘から「ひどい下痢で、病院で点滴を受けている」とメールが入った。最初に僕の頭に浮かんだのは、「何か悪いものでも食べたんじゃないのか」という考えだった。ところが、妻が最初に言ったのは、「かわいそう」という言葉だった。僕が原因を考えていたとき、妻は「大丈夫かな?」と心配したのだった。僕の方は、しんどさに対する想像力が欠けていたようだ。

 

 こんな個人的体験を書いているのは、引きこもり家庭の困難についての報道を見ていて、どこかつながるものを感じたからだ。子どもが家に引きこもって、見るからに苦しそうにしていたら、親は心配する。でも、引きこもってゲームやネットに熱中していると、親の頭にまず浮かぶのは「どうして?」「なんとかならないか?」で、本人のしんどさへの心配ではないかもしれない、と連想したのだ。

 ゲームを長時間続ける生活をしている若者に「そんなに楽しいの?」と聞いてみると、「楽しいですよ!」と明るく答える人もいるが、「ゲームをしていないと、嫌なことをぐるぐると考えてしまうから」といった答えを聞くことも多い。ラクな方向に流されているだけのように見えるとしても、内面にはしんどさを抱えていることがある。そのしんどさに対するこちらの想像力が、本人と関係を築く上で一つの鍵になるかもしれない。

 

 強いストレスを受けているときにも、いかにも「ストレスがきついです」という態度をとる人ばかりではない。ある高校生に「何か困ってることある?」と聞くと、「先生に怒られているとき、笑い出しそうになること」との答えがかえってきたことがある。僕にも、非常に腹を立てたときに笑いがこみあげてきた体験がある。腹を立てることで強いストレス状態になり、張りつめた糸がプツンと切れたといった感覚だった。これも、ストレスを下げるための、からだの反応なのだろう。状況は違うが、この高校生の反応にもどこか似たところがあるのではなかろうか。本当はこの人は怒られていることが他の人以上にこたえているのだと思う。でも、先生は、ふざけた態度と思っていることだろう。

 

 本人の内面に気づけず、かみあわない対応をしてしまうことが僕たちにはある。表面的な態度や言葉にとらわれずに、その人の困難について感じ取れるようでありたいと僕も考えてはいるのだが、そうできていなかったことに後から気づくこともある。みんながいつでも人の気持ちに敏感である必用はないとも思うが、しんどさが人に理解されにくいことで、ますますしんどくなっていく人がいることは心にとめておきたい。

“うまい”なんてほめ方じゃダメですよ

 まなび場で、いつも絵を描いている中学生がいた。美術の方面に進みたいとも思うけれど、「私は絵が下手だからダメなんです」と進路に自信が持てない。僕から見るとすごくうまいので、素朴に「絵、うまいじゃない」と僕は言った。すると、横で聞いていた他の子が、「“うまい”なんてほめ方じゃダメですよ。どこが、どんな風にいいかを言わないと」と言う。紋切り型のコトバで人を肯定しようとしても、かみ合わないのだ。

 

 自分が思ったことをすぐに口に出してしまう人がいた。一生懸命お化粧をしている女子高生に向かって、「顔が可愛くないのに」などと平気で言うので、トラブルが絶えない。だから、思ったままを口に出すのはこの人のマイナス面だと、まわりは思っていた。でも、みんなが言いたいけど言い出せないことがあるとき、遠慮せずズバっと言ってくれるのもこういう人だと分かってくる。思ったままを言うことにはプラスの面だってあるのだ。

 ところで、この人のことをよく知らない人の中には、こういう話をちょっと聞いて、思った通りを言うという特性はマイナスではなくプラスなのだと言う人が出てくる。そんなに単純なことではなく、人との関係がギクシャクして本人は困っているのである。入り組んだ現実の中のプラス面だけしか見ないと、その人の全体をつかみそこねてしまうのではないか。

 子どもと長く付き合っていると、はじめはマイナス(短所)としか感じられなかったことが、プラス(長所)とも見れることに気づくことがある。でも、さらに付き合いが深まっていくと、マイナスとかプラスとか考えずに、その人はそうでしかありようがないのだし、それがその人の味でもある、という風に感じられるようになることもある。もちろん、何かの基準に照らして考えたときにはプラスとかマイナスとか言えるわけだが。

 

 僕が中学生だった時、美術教師と間でのこんな思い出がある。自分でも気に入った作品が仕上がって教師に見せに行ったのだが、作品を見て教師は「幸君は、美術が本当に苦手なんだねえ」と言うのだ。この“苦手”という言葉の意味が僕には分からなかった。今にして思えば、「え?そうですか?僕は結構いいと思うんですけどねえ」と、思った通りを教師に言えば、どうして苦手と感じたかその中身を教師は話してくれたかもしれない。でも、僕は黙っていたので、会話はそこで終わってしまった。

 

 下手/うまい、マイナス/プラス、苦手/得意…。あれかこれか二者択一で現実をスパッと分ける言葉は、相手の気持ちから遠いところから簡単に言えてしまうし、中身が曖昧だったり一面的だったりしがちだと思う。そして、違う風に感じている人とのコミュニケーションを入口で閉ざしてしまうこともある。

 自分がどのように感じているかをできるだけ具体的に相手に投げかけてみて、話し合いの中で、自分の言葉が相手の気持ちや現実からどのようにずれているか探っていくことが大切なのだろう。

“言うことを聞かせる”

 高校教員だった頃、「教師の話をしっかり聞かせるためには、生徒といい関係を作っておくことが大切」と言う同僚がいた。それは何か違うのでは、と僕は思った。教師に従わせるための手段として生徒との人間関係を見ているような言い方に、引っかかったのだ。

 「子どもが小さい時にいい親子関係を築いておかないと、反抗期に大変になる」という意見を聞くことがあるのだが、これに対しても似たことを感じる。いい親子関係は、それ自体がかけがえないものであり、親の言うことを聞かせるための手段ではない。

 

 大人の言うことを子どもにちゃんと聞かせることが教育だと考えている人が多いかもしれない。ちゃんと聞かせるために、子どもを管理するという考え方がある。一方、子どもと良好な関係を作っておけば、子どもは聞いてくれるという考え方もある。この二つは、一見、正反対のようだが、大人に従わせようとしている点は共通している。

 でも、本当に大切なことは子どもが自分の頭で考えることだし、そうなっていく過程では大人とぶつかることだってある。

 

 子どもが自分で考えることを励ましていくことは、子どもに何かを教え込むことより、はるかに難しい。何がきっかけで考え始めるかは人それぞれだろうが、ただ、こんなことは言える。僕が分かりきったつもりになって話したときよりも、あらためて本当にそうなのかを考えつつ話したとき、あるいは、僕にもよく分からないと思って考え込んでいるようなときの方が、子どもは考える姿を見せてくれるということだ。人は、相手が考える姿に刺激されるのだろう。子どもが何かを考え始めたら、その考えをきちんと聞くことで、子どもはさらに深く考えていく。

 

 僕たち大人には、子どもが素直に言うことを聞いてくれるような関係に居心地の良さを感じる面もある。それ自体は自然な感情だとしても、子どもに素直さを求めるのは子どものためというよりは大人の側が居心地良さを求めているのかもしれないと自覚しておくことは大切だろう。子どもと大人との関係はいつでも居心地良いものとは限らないけれど、それでも僕たち大人は子どもとかかわる責任があるし、そういう関わりの中で僕たちは多く学ばされもする。

 

 はじめの話にもどる。話を聞かせるためにいい関係を作っておくというよりは、僕たち自身が自分の頭で考え、それを自分の言葉で伝える努力を続けることで、結果として“いい関係”ができていくのではないか。ここでの“いい関係”とは、相手が言うことを“素直”に聞き入れる関係ではなく、“率直”に意見を言い合って一緒に考えられる関係のことだが。