まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「しんどそうだなあ」と思えるかどうか

 仕事で東南アジアに出掛けていた娘から「ひどい下痢で、病院で点滴を受けている」とメールが入った。最初に僕の頭に浮かんだのは、「何か悪いものでも食べたんじゃないのか」という考えだった。ところが、妻が最初に言ったのは、「かわいそう」という言葉だった。僕が原因を考えていたとき、妻は「大丈夫かな?」と心配したのだった。僕の方は、しんどさに対する想像力が欠けていたようだ。

 

 こんな個人的体験を書いているのは、引きこもり家庭の困難についての報道を見ていて、どこかつながるものを感じたからだ。子どもが家に引きこもって、見るからに苦しそうにしていたら、親は心配する。でも、引きこもってゲームやネットに熱中していると、親の頭にまず浮かぶのは「どうして?」「なんとかならないか?」で、本人のしんどさへの心配ではないかもしれない、と連想したのだ。

 ゲームを長時間続ける生活をしている若者に「そんなに楽しいの?」と聞いてみると、「楽しいですよ!」と明るく答える人もいるが、「ゲームをしていないと、嫌なことをぐるぐると考えてしまうから」といった答えを聞くことも多い。ラクな方向に流されているだけのように見えるとしても、内面にはしんどさを抱えていることがある。そのしんどさに対するこちらの想像力が、本人と関係を築く上で一つの鍵になるかもしれない。

 

 強いストレスを受けているときにも、いかにも「ストレスがきついです」という態度をとる人ばかりではない。ある高校生に「何か困ってることある?」と聞くと、「先生に怒られているとき、笑い出しそうになること」との答えがかえってきたことがある。僕にも、非常に腹を立てたときに笑いがこみあげてきた体験がある。腹を立てることで強いストレス状態になり、張りつめた糸がプツンと切れたといった感覚だった。これも、ストレスを下げるための、からだの反応なのだろう。状況は違うが、この高校生の反応にもどこか似たところがあるのではなかろうか。本当はこの人は怒られていることが他の人以上にこたえているのだと思う。でも、先生は、ふざけた態度と思っていることだろう。

 

 本人の内面に気づけず、かみあわない対応をしてしまうことが僕たちにはある。表面的な態度や言葉にとらわれずに、その人の困難について感じ取れるようでありたいと僕も考えてはいるのだが、そうできていなかったことに後から気づくこともある。みんながいつでも人の気持ちに敏感である必用はないとも思うが、しんどさが人に理解されにくいことで、ますますしんどくなっていく人がいることは心にとめておきたい。