まなび場ブログ

若い人たちとの対話

“スルースキル”

 まなび場で“スルースキル”なる言葉が流行った時があった。人の嫌な面をスルーする(気にしない)力といった意味らしい。誰かの態度にイライラしている人がいると、まわりが「お前、もっとスルースキルをつけろよ」などと忠告するのだった。

 イライラしている人がいると場の空気が悪くなるから、まわりの人間にとってもストレスである。それに、イライラさせた人に問題があるという見方は、特定の人を攻撃したり排除したりする方向に働きかねない。イライラする側にスルースキルが足りないという視点が、場の雰囲気を柔らかくしていたと思う。

 

 ずっと以前の話なのだが、みんなが静かに時間を過ごしているときに、落ち着きなく動き回ったりうるさく音をたてたりする子がいた。その子は、まわりがあまり気にせずにいると、だんだんと落ち着いていった。でも、その子を見てイライラする人がいると、ますます落ち着きをなくしていくのだ。まわりの否定的反応によって、その子はストレスを高め、自分自身をコントロールできなくなったように見えた。

 

 大人と子どもとの関係でも似たことがある。

 僕たち大人は、子どもにこれはできて欲しいという思いがある。それは、例えば、片付けることだったり、何かを我慢することだったりする。そして、子どもがそれをできないと、大人は気になる。時には、気になるのを通り越して、イラっとしたりもする。

 自分に自信を持てている子どもであれば、大人の肯定的でない反応を見て自分の言動を修正するかもしれない。だが、大人の態度がストレスになって、ますますうまくできなくなる子もいる。子どもの好ましくない(と大人が考える)言動にブレーキをかけようとして、かえってアクセルを踏みこんでいるようなことになってしまうのだ。

 

 子どものことが気になるのも、気になったことを本人に伝えることも、大人としては自然な態度だし、大人の責任でもある。ただ、できて当たり前、できないとダメ、という思い込みがあると、できないことに苛立ってしまう。

 できなさを受け流すことができるのは、子どもは自分でもうまくコントロールできないのだと気づけたとき、そして、子どもの魅力や面白さが見えているときのように思う。

 気になる面を見ないようにするのではなく、むしろ、できなさも含めた相手の全体をきちんと見ることが大切なのだろう。

どのように苦手なのか

 僕が話しかけているのに、Aさんはまったく上の空の様子だった。そこで、「ちゃんと聞いてる?」と声をかけると、「私は耳から聞き取るのは苦手と言われていますから!」と言う。私にそんなことを言っても仕方ないよ、といった表情で。

 彼女は、「耳から聞き取るのは苦手で、書いたものの方が伝わりやすい」という特性を医療機関で指摘されていた。その言葉にとらわれて、話を聞こうとするのはムダな努力と思い込んでいるように僕には見えた。

 苦手といっても、どの程度、また、どのように苦手なのかわからないから、僕はとにかく普通に話しかけていた。確かに、彼女は、直接話しかけられていても自分が関心を持てない内容だと、全く耳に入っていないことがある。ところが、彼女のそばで僕が他の人と話しているとき、内容にちょっとでも興味がわくと、細大漏らさずに聞き取っているのである。

 彼女とじっくり関わっていると、耳から聞き取る力は、場面によっては他の人以上にあることが僕にもわかったし、本人もそのことを理解していったと思う。

 

 B君は、「俺は、人の気持ちを読み取るのが苦手」「空気を読めない」「それがもとで人とトラブルを起こす」と言う。さらに、彼には幻聴という症状もあった。ある日、彼はオセロをしていて、ちょっとまずい手を打った。で、相手があれっという顔をした途端、「お前、俺のことを”バカだなあ”って言ったな!」と怒り出した。僕を含めて数人がすぐそばで取り囲んで見ていたのだが、相手はそんなことを言ってないのである。幻聴なのだろう。でも、B君にそう言われてから考えてみると、確かに、相手の子が心の中で「バカだなあ」と感じていたに違いない空気がその時あったのだ。

 B君は人の気持ちを読み取れないどころか、僕なんかよりはるかに敏感にそれを感じ取っていたのである。僕だったら、なんとなく嫌な空気を感じてから、その漠然としたものの正体は何なのかを考えると思う。B君は、そんなまどろっこしいステップをふまず、からだが感じたことが直接的に声として聞こえたのか。

 彼が苦手なのは、空気を感じ取ることではなく、からだが感じとったことを頭できちんと理解することなのではないか、と僕は考えるようになった。

 

 人についても、自分自身についても、何が苦手かを知ることは大切だ。それは、耳で聞き取ることや、人の気持ちを読むことかもしれないし、勉強やスポーツかもしれない。ただし、「〇〇が苦手」といった一言では、その人(あるいは、自分自身)の苦手を理解したことにはならない。どのように苦手なのか、中身を具体的に掘り下げていかなければ、その人の面白さや魅力、そして、その人が持っている可能性を見落としてしまうのではないだろうか。

「私はどうしたらいいんでしょうか?」

 何をやってもうまくいかず途方に暮れてしまった人から、「私はどうしたらいいんでしょうか?」と相談されたことがある。正解がどこかにあるわけではないし、僕がその人の代わりに答えを出すこともできない。「自分では、どうしたいの?」と聞き返して、一緒に考えていこうとした。でも、その人は、あまりに考えがもつれてしまって糸口すらみつからない。そこを解きほぐす作業が不十分なまま、僕は結論めいたことをアドバイスしてしまった。

 その時は、その人は納得した様子で話を終えた。だが、何日かして再度話してみると、やっぱり同じところで思考がもつれたままだった。本人の中で結論を出す準備ができていないときに、他の人が結論を導いてもダメなのだ。

 

 僕が結論を急いでしまったのは、結論が出ないままでは話を打ち切りにくかったからだと思う。問題が宙ぶらりんのままでは、その人が安心できないように感じたのだ。

 相談を受けたときに、結論めいたことは何一つ見えていないのに、話を打ち切ることに大きな抵抗を感じないときもある。それは、僕が真剣に考えていること、そして、悩みに継続して付き合っていく気持ちがあることが相手にきちんと伝わっているときだと感じる。相手のことを真剣に考えたという実感を僕自身が十分に持ち得ないと、話を打ち切りにくくなるのだと思う。

 

 悩みの渦中にある人は、苦しいので、一気に解決する答えを求めてしまいがちだ。でも、答えがすぐに見つかるとは限らない。悩み自体はすぐには解決しなくても、悩みを人に話すことで、しんどさを軽減させていくことはできる。そして、「どうしたらいいのか」は分からなくても、「どうしたいのか」「なぜそうしたいのか」が自分自身で少しでも見えてくれば、その方向で自分にできることを一つでも試してみればよいと思う。

 

 「どうしたらいいのか」については、他人が肩代わりして結論を出すことはできない。しかし、本人一人の限られた体験や考えの中だけでは見えてこないものもある。どうしたらいいのかを相談されたら、この問いの答えも僕たちなりに真剣に考えなくてはならない。その結果、方向が少し見えてきそうなときもあるし、なかなか方向が見えないこともある。いずれにしても、誰かが一緒になって真剣に考えるということ自体が、本人の不安な気持ちを少し軽くする。それだけでも、一緒に考えることの意味はある。

人は思い通りにならない

 「人間関係が思い通りにならない」という悩みを語る若者がいた。どのように思い通りにならないのか僕が聞こうとしかけた時、隣にいた別の若者が「え?それって、支配みたいに聞こえる。人のことを思い通りにするっていうのは」と言った。なるほど、確かにその通りだ。

 “人間関係”が思い通りになることと“人”が思い通りなることとは、同じではない。でも、人間関係が思い通りにならないという思いの中には、相手が思い通りにならないという気持ちも含まれているのではないだろうか。

 人間関係がうまくいかないとき、自分のあり方について考えることはできる。しかし、相手には自分とは異なる考えや感性があるので、相手がどうするかまでは僕たちにはどうにもできない。

 

 僕たちは、人を思い通りにしようと意識的に考えてはいないことが多い。けれど、人にイラっとするのはどんなときだろうか。それは、自分なら絶対にそんなことはしないのにと思っていることを相手がやったときだったりする。相手が自分と同じ考えに基づいて振る舞うことをどこかで期待していたわけだ。本当は、相手の考え方や感じ方はそもそも自分とは違うのだから、それに腹をたてても仕方がない。こういうことは、自分の考え方が相手には通用しないという体験の繰り返しを通じてだんだんと身にしみてくる。

 

 大人が子どもとかかわるときには、人は自分の思い通りにならないという感覚が薄れがちだ。子どもは大人より未熟な存在なので、どうすべきかは大人の方がよくわかっていると考えられているからだろう。確かに大人は子どもより多くのことを体験し考えてきているかもしれない。でも、何を大切と感じるか、どういう考え方をするか、といったことは、その人の個性に属することで、多くを考えた人の方が正しいということではない。

 

もちろん、大人の考えを子どもにきちんと伝えることは大切だ。僕たちは、子どもの頃、年上の人からいろんな刺激や影響を受けて育ってきた。こうやって言葉を使っていること自体、赤ちゃんの頃に親が話しかけてくれたことから始まっている。大人から言われて考えさせられたり気づいたりということも、誰しも体験してきたことだ。しかし、大人との対話を通じて子どもは自分自身の頭で考えるのであって、大人から言われた通りにするべきということではない。大人が子どもに働きかけることと、子どもを思い通りにしようとすることとを混同しないようにしたい。

 

 人は思い通りにはならない。人間関係も思い通りにはならない。自分は言いたいことは言えているか、自分は相手のことをちゃんと考えられているか、僕たちが考えるべきことは、そういうことだろう。

 自分の思いは率直に伝える。そして、相手との接点を探る。でも、自分と相手との違いをわきまえる。そんなふうにできればと思う。

率直に話す

 「なんで不登校になったの?いじめられたの?」新しくまなび場に入ってきた初対面の子どもに、ずけずけと聞く子がいた。それは答えにくいことかもしれない、こんな配慮のない聞き方をして大丈夫か、僕は一瞬ひやりとした。でも、聞かれた子はいじめられた体験を語りはじめ、子どもたちは共感を持って聞いていた。

 ためらいなく素朴に聞かれたから、自然にスッと答えが出たという雰囲気だった。僕たち大人はいろいろ考えてしまうから、なかなかこんな風には聞けない。

 

 こんなこともあった。「死にたい気持ちしかない」という若者に対して、別の若者が「本当に死にたいんだったら、もう死んでいると思う。何十階建てのビルの屋上から飛び降りるとか」と言う。言われた方は初め「私の気持ちがあなたに分かる訳ない」と反発したが、話し合っていくうちに、自分の奥底には生きていたいという心の動きもあることに少し気づいた様子だった。

 きわどさもあるが、死にたいという気持ちを抱えてきた者同士だからこそ、言い合えたことなのではないか。

 

 近い年代や立場だから通じ合うものもある。どこまで本音でしゃべれるかは、自分と相手との関係のあり方によって違ってくる。とはいえ、率直に言った言葉はまっすぐ相手に伝わるというのは、どんな人間関係においてもいえることだ。こちらが構えず無防備であることで、言われた相手も自分を守る必要を感じることなく受け止めることができるのだと思う。

 

 もちろん、率直であれば必ず通じあえるというわけではない。あるとき、過去に人からひどい仕打ちを受けたと訴える子に対して、「あんたの態度には問題はなかったのか?」と聞いた子がいる。聞いた子自身、過去に人間関係のトラブルがあったのだが、自分の態度にも問題があったという思いも持っていたのである。こう聞かれた子は黙りこみ、以後まなび場に来なくなってしまった。自分の態度を非難されたと受け止めてしまったのだろう(この件については、僕のフォローが不十分だったという反省がある)。

 

 率直に言うと相手との関係にギクシャクしたものが生じるかもしれない、そう感じて自分の本当の気持ちを言いだせないことは誰にでもあると思う。でも、言えずにいると、自分の頭の中だけで相手のことを批判的に考えて、相手との距離は開いていく。自分が率直に言えると、相手の言い分も素直に聞ける気持ちになり、結果的には自分の感じ方が少し相手寄りに修正されたりもする。率直に言うことで、関係は悪くなることよりも良くなることの方が多いだろう。

 相手のことをよく分かるためにも、できる限り率直な態度を心がけたい。

先延ばし

 小五のH君は宿題を先延ばしして、その時やりたいこと(友達と遊ぶ、YouTubeを見る、ゲームをする…)をやってしまう。結局、宿題をやらないままになり、先生に怒られる。H君はそのことをどう考えているのか、本人の発表を聞く機会(※)があった。「ママに、先のことを考えろとよくおこられる」が、「ぼくは先が見えている。なぜなら、山ほど時間があることを知っているから」「ぼくはやりたいことはすぐにしたい」「自分に×をつけない力があるから先のばしができる」とH君はいう。

 

 子どもに「問題」(大人から見て、ということだが)があると、「自分で、よく考えてみなさい」などと大人は諭す。子どもがしっかり考えて「問題」に気づき反省する(すなわち、大人の考え方に近づく)ことを、多くの大人は期待する。

 H君は、大人の考え方(先延ばしは良くない)を基準に自分を振り返るのではなく、自分の感性で自分を見つめている。そして、先延ばしするのは、自分にはもっとやりたいことがあるからだし、自分のことをOKと思っているから怒られてもめげないのだ、と考えたのだ。

 

 僕達大人は、先のことを考えて、そこから逆算して今やるべきことを決めることも多い。そうすることで、後で困らないようにしている。でも、こういう考え方は、“今”をどんどん味気ないものにしていく面もある。人の評価を気にして、自分が本当にやりたいことよりも、人からの評価が上がることをやってしまうこともある。

 H君は、人からどう思われるかに縛られず、今自分がやりたいことをやっている。彼が語る様子から、“今”を生き生きと生きていることが伝わってきた。 

 

 さて、僕はどんなときに先延ばししてきたろう。

 ずいぶん昔の話だが、高校三年生の夏休み、僕は受験勉強をするために毎日図書館に通っていた。でも、つい書棚の面白そうな本を開いて読み出すのだった。読書家だったわけではなく、受験勉強を先延ばししたかったのである。この時のことは、本をじっくり読むことができて良かったと思っている。

 教員をしていたとき、仕事への違和感が大きくなってから辞めるまでに何年もかかった。目の前の課題をこなすことで何かをやっている気になり、自分は本当はどうしたいのかを考え抜くことを先延ばしし続けていたといえる。辞めることを先延ばししたことで出会えた生徒達がいるから、単純に後悔はしていない。一方で、もっと早く一歩踏み出すべきだったとの思いもある。

 

 先延ばししても後で何とかなることもあるし、今向き合わなければダメなこともあるだろう。では、子どもが今向き合うべきことは何なのか。この点で、大人と子どもとは感覚が異なるかもしれない。最終的には子ども自身が決めることだが、まずは、大人と子ども、それぞれ自分が感じていることを見つめて相手に伝えてみると、互いに気づくことがあると思う。

 

 

第15回当事者研究全国交流集会 分科会『今なぜ「子ども」に当事者研究が必要なのか』

好き嫌い

 小学生だった時、家で、初めてトマトジュースというものを飲まされた。なんだか奇妙な味がして、「あ、まずい」という反応をした。その日から、1ヶ月ほど、僕は毎日トマトジュースを飲まされる羽目になった。好き嫌いがあってはダメという我が家の教育方針で、嫌いなものが見つかると、好きになるまで同じ食品をとらされたのである。さすがに、毎日飲み続けているうちに、トマトジュースの味に慣れ、普通に飲めるようになった。

 

 慣れるということは、鈍感になることでもある。嫌いな味に鈍感になることで、今まで気づかなかった美味しさの方に気づければ良いのだろう。ただ、僕の場合は、単に味覚を鈍らせただけだったようにも思う。自分に好き嫌いがないのは、味の好みがハッキリしていないだけと、大人になってから気づいた。

 好き嫌いがある子どもの話を聞いていると、彼らは味覚が敏感であると感じさせられる。食わず嫌いはもったいないが、味覚の敏感さは悪いことではない。本当に好きなものを味わう楽しさがある。

 

 こんなことを書いているのは、学校教育で似たことがあると思えるからだ。学校では、嫌いな教科は無い方が良いとされる。ところで、何かに強い関心があると、そこから遠いものには関心が薄れる。高校教師だったとき、僕の数学の授業中に、教室の一番前の席で熱心に文庫本を読んでいる生徒がいた。何を読んでいるのかと聞くと、「哲学です。数学には関心ありません!」と言う。そんなに熱中できることがあるのは、いいことだと思う。

 

 自分の意志を持つことは大切、と誰もが言う。一方で、好き嫌いは、よろしくないとみなされる。しかし、嫌いというのも一つの意志だ。

 子どもの意志は、大人が期待する方向と一致するとは限らない。それがどんなものであれ、意志を持つこと自体の中に、その人の主体性の芽がある。何かを嫌いになるということにも、その人の個性が見える。

 

 子どもの好き嫌いは放っておけばよい、と言いたいわけではない。子どもは体験してきた世界が狭いので、異質なものの中にある良さが見えていないのかもしれない。あるいは、本当に本人には合わないことなのかもしれない。

 僕たち大人にできることの一つは、どうすれば好きになれるか、あれこれ工夫を楽しむことだろう。

 もう一つは、子どもと話し合いながら、一緒に考えていくことだ。話し合っていくと、ああ、こういうところが合わないのだ、と僕たちが了解できることもある。子どもの側が、自分の狭さや固さに気づくこともある。実際には、この二つは同時に起こることが多いと僕は感じている。

 

 子どもの好き嫌いを単純に悪いことと決めつけず、放ったらかしにもせず、子どもの個性を本人と一緒に探っていきたい。