まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「まなび場は、不要不急ですか?」

 コロナ感染防止のため「不要不急の外出は自粛を」との訴えが出されたとき、「まなび場に来ることは、不要不急でしょうか?」と質問する子がいた。さて。“不急”ではあるだろうが、“不要”といわれると僕は抵抗を感じる。ここは教育に関わる場だから“不要”とは言われにくいだろうが、これが音楽やスポーツであっても、あるいは、遊びといわれることであっても、やはり、“不要”と言われると、何か違う気がする。

 

 以前、いつもホワイトボードに詩を書いていた中学生がいた。他の子から「詩を書けるなんて、羨ましい」と言われたとき、この子は「私からしたら、詩を書かないでもすむなんて羨ましい」と言うのだった。自分の気持ちを言葉にすることは、しんどい日々を生き延びるために必要な、止むに止まれぬことだと言いたかったのだろう。似たような思いで音楽を聴いている人もいるだろうし、友達とおしゃべりしている人もいるだろう。その人にとって何が本当に必要なことで、何がやらなくてもすむことなのか、他人が軽々しく言えることではないのだろう。

 

 在宅が奨励されていることに関して、カウンセリングにかかっている人に「カウンセリングがオンラインになったらどうだろう?」と聞いてみると、「それは嫌ですね」「相談するためにそこまで行くときに、普段と違う気持ちになる」と言う。なるほど。生身の人同士が同じ場で対面することの意味を僕は考えていたのだけど、それ以前に、そこまで出向いていくことにも確かに意味がありそうだ。そういえば、昔教員をやっていたとき、学校のすぐ近くに住んでいる同僚が「職場と家が近過ぎて、気持ちを切り替えるのが難しい」と言っていた。距離のある場所にでかけることで、僕たちは自然に気持ちを切り替えている。出かける場所があること自体が大切なのだ。

 

 コロナウイルスで、今まで当たり前にできていた外出ができなくなっている。工夫してみると、出向くことが必要と思い込んできたことの中で、家にいても何とかなるものも見つかってくる。逆に、出かける、他人がいる場所で過ごす、人と視線を交わす、などといった、あまりに当たり前過ぎてその必要性を特に考えることがなかったこと自体の意味にも気づかされる。教育の場に出かけていくことは子どもにとってどんな意味があるのか、きちんと考え直す機会としたい。