まなび場ブログ

若い人たちとの対話

がんばれないとき

 子どもの自殺について、TV局が「まなび場」の若者にインタビューに来たことがある。苦しんでいる人に伝えたいメッセージを聞かれて、彼は「がんばりは、いらない」と述べた。

 この若者は、中学生の時にイジメから学校に行けなくなり、体調にも変調をきたした。僕が初めて会った時、「一日中頭痛が取れない。今も頭が痛い。これは、治らない」と沈んだ様子だったことを覚えている。この頃はまだ、がんばれない自分を受け入れられていなかったのだろう。その後、同じような境遇の仲間と出会う中で、気持ちが切り替わり、体も心も元気になっていった。「がんばりは、いらない」は、彼の切実な体験から出た言葉だと感じる。

 

 子どもが何かにがんばっていると、大人は安心する。このような大人の眼差しの中で、子どもは、「がんばっている自分には価値がある」と感じることができる。でも、これは「がんばれない自分はダメだ」と裏表の関係ではないだろうか。こういう思いが強すぎると、無理なことをがんばって、エネルギーをすり減らしてしまうことがある。そして、どうしてもがんばれなくなったとき、自分を受け入れにくくなるかもしれない。

 がんばるためにはエネルギーが必要である。「がんばれない人はダメ」という考え方が、がんばれないでいる人からエネルギーを奪ってはいないか。

 

 それが本気でやりたいことで、エネルギーがあるのなら、がんばればいい。状況をきちんと考えずに、とにかくがんばればいいわけではない。自分が「がんばるべきこと」と「がんばるべきでないこと」を見定める力をつけることだって大切だ。そして、自分ががんばりたいと思える何かを見つけることは、誰にとっても大きな課題だろう。

 どうしてもがんばれないとき、そちらの方向に進むことに抵抗する何かが自分の中にあるわけだ。そこをきちんと掘り下げていくと、自分が進むべき方向が見えてくることもある。周りに合わせて自分に無理を強いるのではなく、自分に合った方向を探していけばいいではないか。

 

 僕達は、子どもが「がんばっているか」よりも、「生き生きできているか」「どうすればエネルギーが溜まっていくのか」にもっと心を配った方が良いのではないだろうか。大人がそのような眼差しを持っていると、子ども自身も、自分はどう感じているのかにもっと意識を向けるようになっていくだろう。そこから始めていかなければ、自分が進みたい方向も見えてこないと思う。