まなび場ブログ

若い人たちとの対話

納得できなくてもよい?

 ある中学生が、納得できない校則について疑問を言ったら、「信号は守らないといけないでしょう、それと同じ」と先生に説明されたと言う。信号を守らないと危険や混乱が生じることは誰でも納得できるから、納得できない校則を守ることとは全く話が違うのだが…。ここにあるのは、納得など問題ではなく、ルールを無条件に守る態度を身につけることが大切という考え方のようだ。別の若者は、「社会に出たときに、いろんな理不尽なことがあるけどちゃんと我慢できるように、そういうことに慣れさせるために校則があるのかとずっと思ってました」と言う。皮肉でもなんでもなく、本当にそう思っていたのだと。

 

 「方程式が解けて、何かの役に立つんですか?」と聞かれることがある。「科学を学ぶときに役立つ」とは言える。ただ、これでは、「科学を学んで、何かの役に立つのですか?」と問い直されるだけかもしれない。僕たちは日常生活に役立てるためだけに学ぶわけではない。何かを考えて頭をひねる過程が面白いのだし、分からないことがあったときに自分の頭で考えようとする態度や考える力を身につけることこそ、子どもの時から学んでいくべきことだ。方程式の解き方を知っていることが役立たなかったとしても、方程式を解こうとして考えるという体験は生きる。これは、例えば、サッカーの練習を一生懸命することが、サッカー選手にならなかったとしても意味を持つのと同じだ。でも、学校では、結論を導くまでの自分で考える過程はあまり大切にされず、結論を知っていることが評価される。結論を知っていることがそんなに大切か、と問いたくなるもの自然なことだ。

 

 校則と勉強のあり方、二つの問題を書いたのは、根っこで繋がっていると思うからだ。どちらも、子どもが自分の頭で考え納得する過程が大切にされていない。学校生活のルールについていえば、一人ひとりの子どもに対して、日々、具体的な状況の中で、どうすべきか、どうすべきでないか、いちいち考えたり、話し合ったり、説明したりすることは手間も暇もかかる。そんな余裕はないということで、規則やルールに頼って一律に指導するようになっていく。でも本当は、そういう手間暇をかける過程にこそ教育的な意味がある。勉強も同じで、分からない中で右往左往しながらみんなでアイデアを出し合って考えていくという過程こそ面白く意味があるのに、そんなことに付き合っている余裕がないので、効率的に結論を教え込む方向に流されている。

 

 最近、学校で“主体的な学び”が強調されるようになった。それは、分からないことについて自分の頭で考えようとする姿勢を育てる、ということではないのか。もしそうならば、子どもが納得できない校則を押し付けることとは決して両立できないはずだ。あるいは、いちいち指図しなくても子どもが“自主的”に勉強することを“主体的”と言っているだけなのか。

 校則問題は、子どもの権利侵害という切り口から議論されることも多い。それだけではなく、自分の頭で考える人間を育てるという視点からも議論すべきだろう。