まなび場ブログ

若い人たちとの対話

自分で考える

 「ギターとベースをやってます」いう中学生に、「習ってるの?」と聞くと、首を横に振って「弾き方を人から教えられるのはイヤなんです」「いい弾き方を自分でみつけたいから、いろんな人の演奏を動画サイトで見て研究してますよ」という。人から教えられるのではなく、自分でやってみたいのだ。こういうのを“主体的”というのだろう。

 

 数学の問題を考えあぐねている子どもに「ヒントを出そうか?」というと、「まだダメです!」という反応が返ってくることがある。こういう時は、問題が押しつけられたものではなく、その子自身が考えたいものになっている。この時点で、教育はある程度成功している。でも、こうなるときばかりではない。「早く説明してください」と言われることもあるし、そもそも問題に関心を持たない子もいる。

 

 以前、高校で数学を教えていた頃、僕が授業について一番考えていたことは、「どうすれば授業に興味をもつか」と「どう説明すれば分かりやすいか」だった。これらも大切なことではあるが、今は、「どうすれば、子どもが自分自身で考えようとするか」こそが大切だと思っている。人の話を聞いて「あ、面白いな」とか「分かった」と思っても、自分の頭できちんと考えなければ、それは知識を外からペタリと貼り付けただけで、本当にはその人のものにならない。自分の頭で考えて、はじめて、それを学んだといえる。

 

 「考えるのは、めんどくさい」と言われることもある。それは、考えても分かる気がしないからではないか。僕達が考えてみたいと思うのは、問題に関心があって、しかも、考えれば何かが見えてきそうだという感覚を持てるときだろう。教師が分かりやすい説明をすべきなのは、それで相手を分かった気にさせるためではなく、考える手掛かりをくっきりさせることで、考えたら分かるかもしれないという気持ちが持てるようにするためともいえる。

 

 子どもでも大人でも、「考えたい」と思える課題を自分で見つけることもあるが、人から問いかけられて、考えるべき課題に気づくこともある。授業では、教師が子どもに問いかける場面も多いが、さて、子どもが本気で考えるための問いかけがどれだけなされているだろうか。クイズ的な関心を引くため、緊張感を維持するため、あるいは、子どもの理解を試すための問いも多いのではなかろうか。本当の問いは、クイズのように即答できるものではなく、「うーん…」と考えこんでいくきっかけになるものだろう。

 

 音楽のように、まわりに情報があふれているものは、子どもが学びたいものを自分で選んでいくこともできる。一方、数学や科学のような文化は、そこにどんな世界があるのかを大人が意識的に知らせていかなければ、その世界の存在自体に気づかない子どもも多い。だから教育が必要なのだが、多くの人にとって生きていく上で本当に意味を持つのは、誰かが考えてたどりついた結果についての知識よりも、自分で考えるという体験の方だろう。