不登校を取材している人から、「どうして不登校になったのか子どもに聞いても、答えられない子も少なくない」という話を聞いた。ここには、いろいろな問題がからんでいると思う。
まず、答えられないのではなく、答えたくない、という場合がある。「学校で特に嫌なことがあったわけじゃないけど、行きたくない」と言っていた中学生がいる。その人とかかわりだして半年以上たったあるとき、なんでもない雑談をしていたときだったと思うが、「いじめられていた」とぽろりと話してくれた。こういうことは、ためらいなく話す人もいる一方、話すことに抵抗がある人も少なくない。その人にとって、いじめられている自分は人に見せたくない自分なのかもしれない。イジメに限らない。学校の勉強についていけない自分、あるいは、人間関係がうまくいかない自分を見せたくないと思う人だっているだろうし、自分のどんな面を見せたくないと感じるかは人それぞれ違うだろう。
次に、自分でも原因がよくわからない、あるいは、うまく説明できない、という場合がある。「高校時代に不登校になりかけたけど、それまで学校は楽しいと思っていたので、行くのがどうして辛くなったのか、自分でもわからなかった」と語ってくれた人もいる。なんだか元気が出ないのだけど「〇〇が原因」という単純な説明は難しい、こういう体験は誰にもあるのではないか。学校生活では、個々人の気持ちにそぐわなくても我慢せねばならないことも多い。それがそんなに苦でない人もいるし、非常に強いストレスを受ける人もいる。イジメやハラスメントのように本来あってはならないとされていることは、それがストレスになることも分かりやすい。でも、当たり前とされている日常の中でストレスを受けても、それが当たり前でない世界を知らなければ、自分が何からストレスを受けているのかを意識しにくいのではないか。
こんなこともあった。「なんかわからんけど、教室でいると疲れる」と言っている中学生がいた。一緒に電車で小旅行にでかけたとき、はじめは楽しくおしゃべりをしていたのだが、車内が混み合ってくるにつれて、「だめだ、疲れてきたわ」と言い出した。よく聞くと、人の動きがすべて目に入ってきて、目が疲れてくるのだという。自分が関心を向けているものだけを選択して見るということが、彼には苦手なようだ。そんなにたくさんの情報が入ってきたら、さぞかし疲れるだろう。話を聞いていて、僕も疲れた気分になった。教室も、人が多いから疲れる。これは僕にとってはちょっとした発見だったのだが、彼にとっては当たり前のことであり、言葉で説明することは難しかったろうと思う。
よく考えてみると、子どもが学校に行けない理由を説明できないのは、そんなに特別なことでもないという気もしてくる。例えばだが、勉強をやりたくない理由を説明できる子どもがどれだけいるだろうか。大人も、とにかく勉強は頑張るしかないのだからと、やりたくない理由などに関心を持たないことが多い。子どもが感じている違和感を言葉で説明することを励ますのではなく、むしろ、子どもの声を抑えてきたともいえる。多くの子どもは、もやもやと掴みどころがない自分の気持ちを見つめて言葉にするという体験を積んできていないように思う。頑張れる間は気持ちを丁寧に聞かず、頑張りがきかなくなった途端、理由の説明を求めても、そこには無理があるのではないか。
学校に行けなくなった理由を説明できない人もいるが、「〇〇が原因です」と自分から説明してくれる人もいる。その場合も、長く付き合っていくと、本当にそうだったんだなあと思うこともあるし、単純な言葉では全く言い尽くされていなかったと気づくこともある。いずれにせよ、その人は学校では生き生きとできなかったのだ。僕たちが一番考えなければならないのは、どうすればその人は生き生きとできるか、ということだろう。