まなび場ブログ

若い人たちとの対話

“みんな”とは?

 子どもが学校に行けなくなると、多くの親は不安を感じる。学校に行かないために人間関係が希薄になることを心配する人もいるし、進路のことを心配する人もいる。不安の中身は色々あるだろうが、突き詰めると、みんなが行っている学校に行っていない、みんなと違う、ということ自体が、不安の根っこにあるのではないか。

 

 自分の子どもだけみんなと違う、と感じてしまうと、親として安心できないかもしれない。それは、学校に行っている多くの人が同じに見えているということでもあるかもしれない。現実には、同じように学校生活を送っているように見えても、学校でいい時間を過ごしている人がいる一方で、授業なんて何も頭に入っていない人もいる。友達と仲良さそうに振る舞っているだけの人もいる。学校という場に強い違和感を持っている人もいる。内面まで見れば、みんなが同じなんてことはない。

 

 とはいえ、自分だけみんなと違うと思うと、なんだか肩身が狭いような気持ちになる。そういう体験は僕にもあるし、多くの人にあることだと思う。あるいは、自分のまわりにみんなと同じようにできない人がいるとき、それを個人の違いとして自然に受け流すことができない。これも、多くの人が体験しているのではないか。

 

 “みんな”という言葉は、不思議な力を持っている。大人が子どもに何かをさせようとするとき、「みんなやっている」という言葉で説得する(だから、子どもも、大人から行為をとがめられたとき「みんなやっている」と言い訳する)。僕たちの中には、個人の違いを素通りして、人を一括りに“みんな”と一般化する見方が根を張ってしまっているのだろう。そして、”みんなやっている”ことをできない子どもは責められる。こうやって、小さいときから、“みんな”から外れたらダメ、という思い込みが強化されていく。これが、イジメや差別の温床にもなっている。

 

 僕は、教員をやる中で多様な子ども達に出会うことができた、と思っていた。でも、学校の外で子どもたちと出会うようになって、それまで僕に見えていた多様性が狭かったことに気づいた。子どもが仲間内にしか見せない面はあるし、僕の感性が鈍かったということもあるが、それだけではない。まず、学校には、一定の枠の中に入る人だけが集まっている(不登校で学校にいない人がいるし、“障害”があることではじめから除外されている人もいる。学校ごとの学力差や地域差もある)。そのこととも繋がっているが、そこに集まっている子どもの内面の多様性も表面化されにくい。学校は“みんな”が大きな力を持った場であり、 “みんな”と異質な面を安心してさらけ出せない空気がある。

 

 今の学校は、個人の違いを踏まえずに“みんな”を同じ方向に向かせようとし過ぎていないか。それが、個人の違いを見えにくくさせているし、子どもが自分らしさを発揮するのを妨げている。そして、“みんな”から外れた人を孤立させてもいる。教育の中では、むしろ、もっと意識的に、自分と人がどのように違うのかに気づいていくようにすべきだろう。違いにちゃんと向き合っていけば、自分と人とは意外に通じる部分があることにも気づいていくと思う。