まなび場ブログ

若い人たちとの対話

“要点”を押さえればいい?

 若者達がこんな会話をしていた。

「どのくらい読み込めば、この本を“読んだ”といえるんだろう」

「要点が分かってたら、いいんじゃないの」

それはちょっと違うのでは、と思いながら聞いていたのだが、でも、僕もそんな風な読み方をしてきた、とも思いあたる。

 

 最近、昔読んだ本を読み返していて、要点がスッキリとまとめられている部分に以前の僕が線を引いていたことに気づいた。そこは確かに鍵となる用語が書かれていて、学校の教科書ならば太字で書かれているような部分だ。要点が確認できれば先に進める、という感覚で読み急いでいたことが現れている。今回はじっくり読み直していたので、結論的なことが書かれている箇所よりは、ナルホドそういう考え方かと気付かされたところに線を引くことが多かった

 

 以前、“頭が良くなる”と銘打ったカードゲームを持ってきた子どもがいて、みんなでやってみた。たしかに、これで遊んでいれば、推理したり論理的に考えたりする力がついてくるように工夫して作られている。でも、一人の子が「ちょっと単純すぎて、飽きてきますね。それに、頭が良くなるって書いてあるけど、セブンブリッジとかの方がもっと頭使うし」と言う。長い年月生き残ってきたトランプゲームというのは、いろいろな要素が含まれている複雑さがあって、そこを考える面白さがある。そういうゲームの中から、例えば論理的思考力を鍛えそうな部分だけ抜き出してきて簡単なゲームを作ってみても、そんなに面白くないし、それで“頭が良くなる”というのも疑わしい。もとの著作から要点だけ抜き出してまとめた解説本は、分かりやすいけれど深く考えさせられることは少ない。それと似ていないか。

 

 要点を押さえることは大切とはいえ、要点にばかり意識を向ける教育がやられ過ぎていると思う。要点というのは、考えるための足場のようなもので、そこに広がりや奥行きを持たせなければ、文字通り、ただの“点”に過ぎない。そんな点をたくさん頭に押し込もうとしても、自分の頭で生き生きと考えることにはならないし、したがって、頭にも心にも残らない。

 子どもだった頃に学校で受けた授業を思い返してみると、教科書的な解説の部分は覚えていなくても、教師の考え方が滲み出ているような場面はよく覚えていて、それを語っていたときの教師の表情まではっきりと思い出せる。こういった授業が持つ意味は、要点は〇〇でした、とか、△△の力がつきました、などと言う単純な言葉ではくくれない。要点を伝えるだけでは、教育は成り立たない。

「まなび場は、不要不急ですか?」

 コロナ感染防止のため「不要不急の外出は自粛を」との訴えが出されたとき、「まなび場に来ることは、不要不急でしょうか?」と質問する子がいた。さて。“不急”ではあるだろうが、“不要”といわれると僕は抵抗を感じる。ここは教育に関わる場だから“不要”とは言われにくいだろうが、これが音楽やスポーツであっても、あるいは、遊びといわれることであっても、やはり、“不要”と言われると、何か違う気がする。

 

 以前、いつもホワイトボードに詩を書いていた中学生がいた。他の子から「詩を書けるなんて、羨ましい」と言われたとき、この子は「私からしたら、詩を書かないでもすむなんて羨ましい」と言うのだった。自分の気持ちを言葉にすることは、しんどい日々を生き延びるために必要な、止むに止まれぬことだと言いたかったのだろう。似たような思いで音楽を聴いている人もいるだろうし、友達とおしゃべりしている人もいるだろう。その人にとって何が本当に必要なことで、何がやらなくてもすむことなのか、他人が軽々しく言えることではないのだろう。

 

 在宅が奨励されていることに関して、カウンセリングにかかっている人に「カウンセリングがオンラインになったらどうだろう?」と聞いてみると、「それは嫌ですね」「相談するためにそこまで行くときに、普段と違う気持ちになる」と言う。なるほど。生身の人同士が同じ場で対面することの意味を僕は考えていたのだけど、それ以前に、そこまで出向いていくことにも確かに意味がありそうだ。そういえば、昔教員をやっていたとき、学校のすぐ近くに住んでいる同僚が「職場と家が近過ぎて、気持ちを切り替えるのが難しい」と言っていた。距離のある場所にでかけることで、僕たちは自然に気持ちを切り替えている。出かける場所があること自体が大切なのだ。

 

 コロナウイルスで、今まで当たり前にできていた外出ができなくなっている。工夫してみると、出向くことが必要と思い込んできたことの中で、家にいても何とかなるものも見つかってくる。逆に、出かける、他人がいる場所で過ごす、人と視線を交わす、などといった、あまりに当たり前過ぎてその必要性を特に考えることがなかったこと自体の意味にも気づかされる。教育の場に出かけていくことは子どもにとってどんな意味があるのか、きちんと考え直す機会としたい。

「自分の考えを言葉にする経験が積めない」

 「自分の考えを言葉にするのが難しい」と言う若者と、話す経験を積んでいくことが大切だね、という話をしていた。すると別の若者が、「なんでも素直に大人がやりなさいっていう通りにしている子は、自分の考えを言葉にする経験が積めないと思う」と言う。確かに、大人が先回りしてレールを敷くことで、子ども自身が考えたり主張したりせずに済んでしまっていることは多い。

 

 大人はよく、子どもに”○○させる”と言う。勉強させる、練習させる、我慢させる、ルールを守らせる、等々。子どもはまだ自分が何をやるべきか考える力がないから、大人に言われたことをやるものだという発想があるのだろう。子どもに考えさせることが大切と言われるときも(“子どもに考えさせる”ではなく、“子どもが考える”の方がいい表現だと思うが、それはさておき)、何をやるかをゼロから考えるという意味ではなく、大人が方向づけした枠内でどうやるかを工夫するというほどの意味で言われているだけだったりする。何をやるべきかを自分で考える力をつけることは、教育の大切な課題なのに。

 

 大人が決めなければ、子どもは自分で考える場合もあるし、自分で考えず周囲に流されるだけの場合もあるだろう。子どもが考えるかどうかは、周りにどんな刺激があるか、どんな人達がいるか、大人がどんな関わり方をしているか、といったことにも大きく左右される。大人には、子どもに刺激を与えたり、環境を整えたり、子どもと一緒に考える等の役割がある。

 

  子どもが自分で考えて行動しているようにみえても、大人の期待に沿った行動をとっているだけのこともある。僕も、若い頃は自分の価値観や生き方は自分で選んだと思い込んでいたけれど、大人になるにつれて、親の考え方や期待の影響を受けていたことに気づくようになった。自分の考えの根拠をきちんと見つめることが大切だし、そのためには、考えを言葉にする作業が必要だ。

 

 考えを言葉にすることを求めて、僕達は子どもに問いかける。でも、問われることにいいイメージを持っていない人も多い。それは、教育の場での“問い”が、答えられるか試すためのものだったり、正解に誘導するためのものだったり、あるいは、「どうしてできないの?」と相手を問い詰めるのだったりすることが多いからかもしれない。問われたので深く考えたという体験を子どもには積んで欲しいし、そのような問いかけを心がけたい。

子どもの考えを聞く

 「親は、私の考えをちゃんと聞かずに、自分の考えを押し付けてくる」と言う人がいた。そこで僕自身のことを振り返ってみたのだが、少し思い当たることがある。それは、こんなことだ。若い人の話を聞いているとき、僕から見て間違っていると思われる主張があると、そこで僕が口をはさむことがある。そこから議論が噛み合っていく場合もあるが、そこで口をつぐんでしまう人もいる。そして、口をつぐんでしまった人は、本当には納得していなかったように思えるのだ。

 

 子どもはまだ知識・経験・考えが発展途上だから、大人から教えなければならないことがあるし、それが“教育”だと考えられている。子どもだけでは気づきにくいことを大人が教えるという考え方自体は、ごく自然なものだ。それが自然なものだからこそ、大人が子どもに一方的に考えを押し付けていても、その問題に気づきにくい。

 

 大人が考えを押し付けるというのは、子どもの側からすれば、自分が尊重されていないと感じることであり、そこに不満を持つのは当然だ。だが、子どもが不満を持ったとしても、大人の考えを押し付けて良いと考える人もいる。ものごとがよく分かっていないから不満に思うだけだ、あるいは、自分一人で生きているのではないのだから我慢も覚えなければならない、というわけだ。大人の言うことを聞かせるべき場面はあると僕も思うのだが、そのことと子どもの考えをちゃんと聞くこととは矛盾しないのではないか。

 

 子どもは、僕たち大人が気づかないような本質をついた意見を言うこともある。一方、大人の目から見ると論理的でなかったり一面的だったりする意見も言う。子どもの話を聞くということは、それに同調するということとは違う。ていねいに話を聞いた上で、大人の意見もきちんと伝えればいい。ちゃんと聞いた上で伝えた方が、こちらの考えも相手にちゃんと伝わる。それに、子どもの話に矛盾がある場合には、大人が意見を言うまでもなく、誰かにきちんと意見を聞いてもらっている間に自分自身で矛盾点に気付くことも多い。人に話そうと努力する中でこそ、子どもの考えは整理されて深くなっていく。

 

 子どもの意見をきちんと聞くのは、子どもを理解するため、あるいは、僕たち大人が何かに気付くためだ。…いや、何かのために聞くのではなく、相手に関心を持つことが人として大切なだけか。そして、大人が関心を持って子どもの話を聞くことが、結果的に、子どもの中で自分なりの感じ方や考え方が育つのを助けるのだろう。子どもの内面を育てるという意味で、聞くというのは“教育”的な態度とも言える。この文章を書きながら、もっとちゃんと聞かねばと改めて考えている。

違いが否定される、ということの居心地悪さ

 「理不尽な校則が不登校の原因になっていると感じる事はありますか」と聞かれたので、今までに僕が関わった不登校の人達のことを考えてみた。「制服を着たくないから学校に行きたくない」と言っていた人はいた。気持ちが不安定になってネックウォーマーで顔を隠さないと安心できなかった時に、ネックウォーマーの着用を認められなかったので登校できなかった人もいた。でも、彼らの不登校の原因が校則だったかといえば、それはちょっと違うだろう。

 

 彼らにとっては、服装のこと以前に、学校での人間関係が居心地悪かったように僕には見えた。そこでは、みんなに合わせなければならず、みんなと感じ方や行動が違うと周りの生徒達から否定的な目で見られる。そういうことが嫌だと感じている人は、みんなが同じ制服を着ることにも違和感があるだろう。また、そういう集団生活に強いストレスを感じていても、一人だけ特別扱いはできないという論理で、柔軟な対応をしてもらえない。そういうことの全体が、学校に行きづらい原因になっているのだ。

 

 校則についていえば、「私の中学校では、靴下の色は黒と白はいいけど灰色はダメなんですよ!」と教えてくれた人がいるが、子どもに納得できないルールも少なくない。別の若者は、「校則の中身に意味があるんじゃなくて、それを守らせることに意味があるんでしょ」と笑っていた。教師の決めたことに従う生徒にするために校則で縛っていると受け取っているわけだ。そこまで言わないとしても、子どもの身なりも先生の指導も一律に揃えようという発想は、“みんな同じであることが良い”というメッセージを子どもに対して発信していることにならないか。

 

 「先生には反発できるけど、生徒同士の人間関係は難しい」と言っていた若者がいたが、学校の管理よりも子ども同士の同調圧力の方がしんどいと感じている人は多い。ただ、子ども同士の人間関係は学校のあり方と無関係ではない。みんなと違うことを教師が否定的に見ていれば、それは子ども同士の人間関係にも影響する。理不尽な校則が原因で学校に行けない人もいるかもしれないし、理不尽な校則がなくても、自分のあり方を周りに合わせなければならない空気が苦痛で行けない人もいる。これらは別の問題ではなく、根っこは繋がっている。

 

 学校は多人数が一緒に過ごす場だから、人と折り合わなければならない事もある。でも、自分と人とは違っていいという感覚が欠けていると、相手を一方的にみんなに合わせさせようとしたり、みんなと違うところが目に付く人が否定されたりということが生じる。学校は、校則やルールで個人の違いを見えなくさせるのではなく、むしろ、もっとみんなの違いが見える場にしていく方が良いと思う。その上で、感覚や考え方の違いをすり合わせて互いに折り合える所を探していく作業が必要だし、それが教育なのではないか。

「興味はあるけど、関心がない」

 ある人が、こんなことを話してくれた。

「人間関係に、興味はあるけど、関心がないんです」

「小説は読んでいます。小説は、人間関係について書かれている訳だから、自分は人間関係に興味を持っているんだと思います。でも、自分自身が人と関わろう、という意欲がないんです」

 

 僕は“興味”と“関心”との違いについて深く考えたことがなかったが、この人は、頭の中だけでのことを“興味”という言葉で表現し、自分がそこに関わろうとする気持ちを “関心”と言っているようだ。そのように言葉を区別してみると、「興味はあるけれど、関心がない」ということは、僕たちの周りにたくさんあるのではないか。

 

 昨年末、グレタ・トゥンベリさんが科学誌ネイチャー「今年の10人」に選ばれた。選出理由は、地球温暖化について「科学者たちは数十年間も警告を発してきたが、トゥンベリさんが今年したような世界的な注目を集めることはできなかった」というもの。僕もそうだが、地球温暖化に興味を持っても、グレタさんほど切実に自分の問題として関心を持たない人が多かったということか。

 

 では、関心はどうやって育つのだろうか。僕自身のことを言うと、高校時代までは教育に全く関心がなかったのだが、学生時代に家庭教師として子どもと関わったことがきっかけで関心を持ち始めた。そして、仕事で子ども・若者達と関わるにつれて、関心は深まっていった。誰でも、自分の関心について振り返ってみると、出発点には誰かとの関わりがあったのではなかろうか。人との関わりが関心につながり、関わり→関心→関わり…という循環の中で、関心は育っていくと思うのだ。

 

 けれど、最初の関わりがないと、関わらない→関心が育たない→関わらない…という悪循環になっていくかもしれない。最初の関わりの機会とどう出会うかは、人によって違うし、偶然の出来事ということも多いだろう。とはいえ、ただ待っていてもそれはやってこない。いろいろな事や人と出会う可能性が高い場に身をおくことも大切だろう。

 

 教育というのは、“関心”(人や社会や文化と関わりたいという気持ち)を育んでいくことではないか。何かに強く関心を持っている人との関わりは、関心が育つ大きなきっかけになる。子ども同士が深く関わり合える環境も作る必要があるし、僕たち大人が人や事柄にどれだけ関心を持っているかも問われている、と改めて思う。

「何のために勉強するんですか?」

 高校の数学教員だった時、「数学は何のために勉強するんですか」と生徒から聞かれると、僕はどう答えていたか。

 

 まず、「筋道たてて考える力が身につく」。でも、筋道たてて考える力は、例えば、将棋や囲碁でも十分鍛えられるのではないだろうか。むしろ、多くの数学授業では、生徒が自分の頭でじっくり考える余裕がないまま教師がどんどん教えている面があるし、考えるというよりは解き方を覚えて何とかテストをクリアしている生徒もいるのだから、学校の数学については、この説明には疑わしいところもある。

 「ものの見え方、考え方が広がる」。ものごとがどう変化しているか、式やグラフの形で具体的にイメージできるようになる。この世界にどんな法則性があるかも、数学の力を借りて考えることができる。しかし、そういうことに今は興味がないという人もいる。

 結局、「どんなことでも、それが面白いと思えたら、取り組む意味あるよね。サッカーだって、音楽だって、興味があるからやる。数学だって同じ」という話になる。自分が関心を持てるものを見つけるために、いろんな勉強を一通りやってみるといい。

 

 さて、一通りやってみたけど、やはり数学には関心が持てないと思っている人もいる。そういう人には、「数学は、(進級•進学に必要な)最小限の勉強でもいい。関心を持てることに時間とエネルギーを注ぐことが大切」と伝えてもいいと思う。でも、当時の僕は、そこまではっきりとは言わず、「もう少しやってみたら、面白さがわかってくるかもしれないよ」と、紋切り型のことを言ったりもした。生徒のことを深く考えて言ったというよりも、生徒の数学の成績を伸ばすことに気持ちがとらわれてそう言った面もある。本当はこういうとらわれは不必要だったと、今では考えている。教師としては、教科の論理や面白さをきちんと伝える役割がある。でも、それ以前に、子どもと関わる大人として、嘘やごまかしなく話し合うことに努めなければならない。現実を自分の目で見つめたことを大人が話してこそ、子どもも自分の頭できちんと考えようとするのだから。

 

 勉強する意味については、多くの子どもが疑問を持っている。いい成績を取って欲しいという大人の思いから子どもを何とか勉強させようと言いくるめるのではなく、大人と子どもがゼロから一緒に考えてみればよい。それは、子ども時代の貴重な時間とエネルギーをどのように使うかを子ども自身が考えることにつながる。