まなび場ブログ

若い人たちとの対話

好き嫌い

 小学生だった時、家で、初めてトマトジュースというものを飲まされた。なんだか奇妙な味がして、「あ、まずい」という反応をした。その日から、1ヶ月ほど、僕は毎日トマトジュースを飲まされる羽目になった。好き嫌いがあってはダメという我が家の教育方針で、嫌いなものが見つかると、好きになるまで同じ食品をとらされたのである。さすがに、毎日飲み続けているうちに、トマトジュースの味に慣れ、普通に飲めるようになった。

 

 慣れるということは、鈍感になることでもある。嫌いな味に鈍感になることで、今まで気づかなかった美味しさの方に気づければ良いのだろう。ただ、僕の場合は、単に味覚を鈍らせただけだったようにも思う。自分に好き嫌いがないのは、味の好みがハッキリしていないだけと、大人になってから気づいた。

 好き嫌いがある子どもの話を聞いていると、彼らは味覚が敏感であると感じさせられる。食わず嫌いはもったいないが、味覚の敏感さは悪いことではない。本当に好きなものを味わう楽しさがある。

 

 こんなことを書いているのは、学校教育で似たことがあると思えるからだ。学校では、嫌いな教科は無い方が良いとされる。ところで、何かに強い関心があると、そこから遠いものには関心が薄れる。高校教師だったとき、僕の数学の授業中に、教室の一番前の席で熱心に文庫本を読んでいる生徒がいた。何を読んでいるのかと聞くと、「哲学です。数学には関心ありません!」と言う。そんなに熱中できることがあるのは、いいことだと思う。

 

 自分の意志を持つことは大切、と誰もが言う。一方で、好き嫌いは、よろしくないとみなされる。しかし、嫌いというのも一つの意志だ。

 子どもの意志は、大人が期待する方向と一致するとは限らない。それがどんなものであれ、意志を持つこと自体の中に、その人の主体性の芽がある。何かを嫌いになるということにも、その人の個性が見える。

 

 子どもの好き嫌いは放っておけばよい、と言いたいわけではない。子どもは体験してきた世界が狭いので、異質なものの中にある良さが見えていないのかもしれない。あるいは、本当に本人には合わないことなのかもしれない。

 僕たち大人にできることの一つは、どうすれば好きになれるか、あれこれ工夫を楽しむことだろう。

 もう一つは、子どもと話し合いながら、一緒に考えていくことだ。話し合っていくと、ああ、こういうところが合わないのだ、と僕たちが了解できることもある。子どもの側が、自分の狭さや固さに気づくこともある。実際には、この二つは同時に起こることが多いと僕は感じている。

 

 子どもの好き嫌いを単純に悪いことと決めつけず、放ったらかしにもせず、子どもの個性を本人と一緒に探っていきたい。