まなび場ブログ

若い人たちとの対話

「やりたくない」気持ち

 「やるべき」と大人が考えていることを、それは例えば勉強することなどだが、子どもはやりたくない。こんなとき、子どもは、「やりたくない」という気持ちに負けてはダメだと言われる。本人の気持ちがどうであれ、やらないといけない。「やるべき」というのは、“みんな”が言っていることなのだから。

 

 やりたくない勉強を嫌々やっている子を見ていると、ほとんど考えることなく、機械的に暗記していたりする。形だけやっているので、身につくことも少ない。型から入って分かっていくことも勿論あるけれど、勉強をますます嫌いになっていくことも多い。人と一緒に何かに取り組むということが嫌という子どももいる。そういう子どもに無理やり人と関わらせるとどうだろうか。慣れていく中で人間関係がよくなっていく可能性もあるけれど、嫌な思いを積み重ねれば、人間関係がますます嫌いになっていくのではないか。気持ちに反してやっても逆効果なこともあるのだ。

 

 「やりたくない」と子どもが言っても、みんながやっているのだから頑張れるはずと言われる。でも、ある人にはすぐに出来ることが別の人には膨大なエネルギーが必要だったりする。これは、必要な努力の量が人によって違う、というふうに単純に量的な違いとしてとらえられがちだ。でも、それだけではない。ある人にとっては、それがその人を生き生きとさせてくれるものであり、別の人にとっては自分のエネルギーを削り取られることだったりする。同じことをやっていても、その人にとっての意味は全く異なっているかもしれない。

 

 僕たち大人は、子どもが“何をやっているか”“何ができるか”を気にかける。一方、“どんな気持ちか”を分かろうとしてきただろうか。子どもの気持ちについては、それをどう抑えるか、という風に考えてはこなかったか。さて、僕たち自身は、自分の気持ちと関係なく人から言われたことをやれる人間になりたいだろうか。そうではなく、人から言われなくても、あるいは、やるなと言われても、自分が本当にやりたいから、自分がやるべきだと思うから、自分の強い気持ちに従って取り組んでいく人間になりたいと思うのではないか。僕たち大人だって、自分の気持ちと行動がいつでも一致しているわけではない。だとしても、どうすれば少しでも気持ちと行動とが噛み合うかを考え続ける。こういうことは、子どもの頃からきちんと考える習慣を身につけた方がよいと思う。

 

 子どもが「やりたくない」ことはやらなくてもよい、というふうな単純なことを言いたいわけではない。「やりたくない」という気持ちの中身について、一緒に考えてみなくては、と僕は思っている。話し合ってみると、「やりたくない」中身はいろいろだ。人と比べられて嫌な思いをしてきた子もいる。他にやりたいことがあるため、大人から言われる「やるべきこと」に意味が感じられない子もいる。「やるべき」とされることとの最初の出会いが悪かったため、食わず嫌いになっていることもある。それが本当に苦手という子もいる。やりたくないという感覚が真っ当だと納得させられることもある。「やりたくない」の中身によっては、やらない方がよいことだってあるし、まず先にやっておくべきことがあることもある。やり方を工夫すればよいことだってある。あるいは、考えていく中で本人の気持ちの方が変化していくこともある。その子の個性にあった、したがって、その子にとって本当に「やるべき」、他のことが見えてくることもある。

 

 子どもの気持ちを単に我慢すべきものととらえるのではなく、気持ちの中身について子どもと大人が一緒に考えてみることが大切だ。考え方や気持ちの溝がなくならなくても、大人にとっても子どもにとっても、自分や相手の気持ちの奥にあるものに気づいていくこと自体に意味があると思う。

「出来ないことが出来るようになること、じゃないよ」

 学生時代、福祉を学んでいた友人から「発達って、出来ないことが出来るようになることじゃないよ」と言われたことがある。どういう意味なんだろうか。もう何十年も経つのだが、ずっと引っかかっている

 

 子どもが何かを出来るようにしていくことが教育だ、と考えている人は多いだろう。子どもが何かを出来るようになると、大人に喜ばれたり褒められたりする。出来ないと、喜ばれなかったり怒られたりもする。大人のそういう態度によって子どもは出来るようになっていくとも思われている。

 

 出来ることが評価されるという教育は、実際にはどんなことを生み出しているだろうか。出来る子は、評価される。それが自信につながり、ますます出来るようになっていく。出来ない子は、低く評価される。それで、頑張って出来るようになっていく子もいるけれど、やる気を失って、ますます出来なくなっていく子が多いようにも見える。出来る子と出来ない子の差はどんどん広がっていく。出来る子も、人から評価されることで動機づけられているだけでは、ある程度出来るようになるとしても、本当に好きでやっている人のようには深まっていかないのではないか。

 

 僕は子どもの頃、楽器の練習に取り組んでいた時期があった。今から振り返ると、速く正確に指を動かすことが“出来る”ようになることに意識が向いていて、音に耳を澄ますという態度とは違ったようにも思う。だから、人と比べて自分がさほど出来るわけでもないと気づくと、練習しなくなっていった。弾くこと自体が本当に好きだったら、人より出来るかどうかなんて関係なかったはずだ。楽器自体に強い関心があったというより(自分ではそう思い込んでいたけど)、何かが出来るようになることで自信を得たかったのだと思う。

 

 中高生の数学の勉強では、公式を暗記していることで出来るように見えているけれど、意味は分かっていない、ということもある。出来ることだけを目指していると、自分の頭でじっくり考えてみたり、自分なりに工夫してみたり、試行錯誤したり、という過程がすっぽり抜け落ちてしまうことがあるのだ。そんな勉強はつまらないと思うのだが、とりあえず人の評価を得ることはできる。

 

 子どもに教えるときは、出来るようになることを目指すというより、子ども本人が関心を持って考えたり試行錯誤してみたりすること、そして、もっと考え続けたいという気持ちが育っていくことをまずは目指すべきだろう。出来るは結果といしてついてくればよい。授業についていえば、教室にいる子どもたちは、関心の持ち方、理解の仕方やペース、考え方、みんなまったく違う。全員が同じように出来るようになることを目指すには無理がある。一方、それぞれの子どもがその人なりに考えたりやってみたりすることは、子ども達の中にどんなに違いがあっても、教師としても工夫して追求していける目標だし、子どもたちにとっても、人との優劣に気をとられることなく自分なりに取り組めることだ。そして、教師=既に出来るようになっている人、子ども=まだ出来ない人、という単純な二分法ではなく、教師と子どもとで一緒に探求していくというスタンスの方が、教師にとっても子どもにとっても自然体で楽しく学んでいける。

 

 子どもが何かを出来るようになることに僕たち大人は関心を向けやすい。それはそれで自然なことだと思うが、出来る・出来ないに関わりなく、子どもの中でどんなことが生じているかに関心を向けることにもっと意識的でありたいと思うのだ。

「どうして学校に行けないの?」

 学校に行けなくなったことを「どうして?」と聞かれるのだけど本人もうまく答えられない、ということがある。

 

 話は全く別なのだが、何かができなくて「なんでできないの?」と問うたり問われたりした体験は多くの人にあるのではなかろうか。で、問われた側が考えてみて、できない理由を見つけて、できるようになりました、などということはあまりないだろう。例えばスポーツの苦手な人が「なんでできないの?」と聞かれても、不得意だからとしか答えようがない。これは問いの形をしているけれど、できないことを責めている言葉だと受けとる人が多いだろう。

 

 子どもが何かをできない理由をまわりの大人が考えてみて、ああ、ここでつまづいていたのか、とか、こういうやり方は本人に合っていなかった、とか気づくことがある。だから、「この子はどうしてできないのかな」と僕たち大人が考えること自体は自然なことだと思う。ただ、この問いは、“みんなできるはず”という思いが暗黙の前提になっている場合がある。できて当然という思いがあるから、「どうしてできないの?」と聞きたくなる。でも、僕たちができて当然と思っているとすると、それは、自分や自分のまわりの人間にはできたという狭い経験に基づいて考えているからだろう。今まで、それができない人と出会ってこなかった、あるいは出会っていたけど気づかなかっただけではないだろうか。現実には、どんなことでも、できる人とできない人がいる。より正確にいえば、小さなエネルギーでできる人と多大なエネルギーを要する人がいる。人には違いがあるのだ。

 

 さらに、“できるはず”のもっと根底には、“すべての人にとって、できる方がよい”という大前提もあるかもしれない。この大前提も一度疑ってみる必要はないだろうか。例えば、数学は“すべての人にとって、できる方がよい”と言えるだろうか。子どもが数学に関心を持てるように働きかけることは教師の責任だ。でも、どこまでできるようになるかは、その子どもの興味関心や特性によって違ってよいだろう。これは、どんな学業でもスポーツでもアートでも同じだろう。人によって、何に価値を感じるかは違う。できないことが、どこかその人の持ち味と繋がっていたりすることもある。でも、“すべての人にとって、できる方がよい”とまわりの人達が当たり前のように思い込んでいると、できないことは引け目になる。引け目は、ますますできなくさせていく要因にもなる。

 

 ここで、ようやく表題に戻る。学校に行けない子どもに「どうして?」と問うとき、その問いの前提はなんだろうか。一つには、学校には行けることが普通であって、行けないとしたら何か特別の事情があるはずだ、という思いがあるかもしれない。また、学校はすべての子どもにとって行った方が良い、という大前提もないだろうか。

 

 もちろん、学校に行けない特別な事情はあり得る。イジメやハラスメントなど、学校に普通にあってはならないとされている事態の場合である。しかし、そういうことがなくても学校に行きたくない子どもも少なくない。それは、今の学校の普通のあり方自体が子どもに無理を強いていることが関係しているかもしれない。「学校に行くと、自分が自分でなくなる」と言っていた中学生がいる。学校という場では、自分のペースや感じ方よりも集団に合わせることがどうしても優先される。そんなことをさほど気にしない子どももいるが、強い違和感を持つ子どももいるし、非常に強いストレスを受ける子どももいる。そういう子どもが、学校に行きたくないと思うことは不思議なことではない。そして、そういう子どもにとって、学校に行くことが一番いいことなのかを考える必要もある。

 

 学校に行けないとすると、何か特別な事情があるのでは、とか、その子どもに特別な問題があるのでは、とか考えているだけでは、見えてこないことがある。学校のあり方へも問いが向けられなければならないし、僕たちの思い込みを問い直してみることも求められる。

関心を育てる

 子どもにできないことがあると、周りの大人は心配する。そして、できるようにしようとして働きかける。僕自身、数学を教えるとき、“できるようになること”を目指しがちだ。それは目標として分かりやすく、手応えも感じやすい。できると、子どもも嬉しい。次のステップに進むために、できておいた方がよいこともある。でも、できるようになることを目指すことには、様々な落とし穴がある。

 

 「勉強が嫌い」という中学生に「どうして?」と聞いてみると、「小さい間違いを注意されてばかりで嫌になった」と言う。ちゃんとできるようにならないと、と思って、大人は注意する。注意されてできるようになることもあるけれど、注意ばかりされて嫌になってしまうことも多い。苦手な子にとっては、できるようになることばかり追求されること自体が、苦痛でしかない。

 

 僕の個人的体験なのだが、自分はできていると思いこんでいたことが、後から振り返ってみると、本当には分かっていなかったということが色々とある。でも、要求されている線までできたことで満足してしまって、それ以上深く考えずに済ましていた。周りの大人も、深く問いかけてこなかった。“できる”という目に見えやすいことにばかりに意識が向いていると、その人がどのように感じ考えているのかという大切なことが見過ごされやすい。

 

 大人は、子どもが“できるようになること”だけでなく、いや、それ以上に、本人の“関心が育つこと”に意識を向けるべきだろう。できるようになることだけに意識が向いていると、本人の気持ちなど関係なく、ただ頑張ればよい、できさえすればよい、ということにもなりがちだ。一方、関心が育つというのは、「自分で考えたい」「自分でやりたい」「自分で感じたい」といった気持ちが強まっていくことだ。これは、外から力づくでぐいぐい押してもだめで、かといって、本人任せで放っておいていいということでもなく(それが必要なときもあるけれど)、本人が感じ考えていることと付き合いながら、大人と子どもで一緒に考えていくことなのだ。

 

  関心が育っていけば、自分の気持ちに動かされて取り組んでいくので、その人なりにできるようにもなっていくだろう。とはいえ、できるようにするための手段として関心を育てるわけではない。関心を持って生き生きと取り組めること、また、自分自身で感じ考えるようになっていくことが、何かができたということより、意味あることだったりするのだ。

 

「好きが60%以上ないと」

 やりたいことをやっているとき、人は生き生きとしている。

 嫌だなあと思いながら、やらないといけないからやっていると、なんだか元気が出ない。僕も、明るい気持ちになれないときがあって、自分は本当は何がやりたかったのか、思い返してみた。そして、やりたいことがあって始めたことなのに、それが、やらないといけないことになりかけていなかったかと、反省した。自分がやりたいと思ってやっていると、エネルギーも湧いてくるし、思考も活性化するし、人といい刺激を与え合うこともできる。やっぱり、自分の気持ちにそってやらないと、形だけになってしまって、成果も出ないし、ただ、疲れてしまう。

 ある中学生と話したのだが、「もう、これからは、自分が好きなことだけやっていこうと思いました」と言う。その人は、ただただ我慢し続けるという状況に疲れ切って前向きの気持ちを持てずにいたように僕には見えていたのだが、新しい学年が始まったのを機に、気持ちを切り替えられたようだった。「好きなことをやっていくために我慢しなければならないこともあるけどね」と僕が言うと、「そうですね。だとしても、好きが60%以上ないと」と言う。60%!全く同じことを僕も考えたことがあるのだ。昔教員をやっていたとき、つまらない校則で縛るとか、受験勉強を教えるとか、あまりやりたくないこともあったけれど、子どもに教えたり子どもと関わったりすること自体は楽しく、やりたいと思えることだった。仕事の60%以上は好きなことだったといえる。やりたいが60%で我慢が40%の仕事はやれる。でも、その比率がだんだんと逆転して我慢60%と感じるようになったとき、このままずるずる続けるべきではないと考えた。

 学校に行くことは義務ではなくて権利、などといわれる。さて、子ども本人は、学校は行かないといけないと思っているのか、自分がやりたいことをやるために行くと思っているのか。学校であれ、学校外の居場所であれ、自分がやりたいことをやるためにそこに行きたいと子どもが思える場でなくては、と思う。

自分の気持ちを言えない

 不登校を取材している人から、「どうして不登校になったのか子どもに聞いても、答えられない子も少なくない」という話を聞いた。ここには、いろいろな問題がからんでいると思う。

 

 まず、答えられないのではなく、答えたくない、という場合がある。「学校で特に嫌なことがあったわけじゃないけど、行きたくない」と言っていた中学生がいる。その人とかかわりだして半年以上たったあるとき、なんでもない雑談をしていたときだったと思うが、「いじめられていた」とぽろりと話してくれた。こういうことは、ためらいなく話す人もいる一方、話すことに抵抗がある人も少なくない。その人にとって、いじめられている自分は人に見せたくない自分なのかもしれない。イジメに限らない。学校の勉強についていけない自分、あるいは、人間関係がうまくいかない自分を見せたくないと思う人だっているだろうし、自分のどんな面を見せたくないと感じるかは人それぞれ違うだろう。

 

 次に、自分でも原因がよくわからない、あるいは、うまく説明できない、という場合がある。「高校時代に不登校になりかけたけど、それまで学校は楽しいと思っていたので、行くのがどうして辛くなったのか、自分でもわからなかった」と語ってくれた人もいる。なんだか元気が出ないのだけど「〇〇が原因」という単純な説明は難しい、こういう体験は誰にもあるのではないか。学校生活では、個々人の気持ちにそぐわなくても我慢せねばならないことも多い。それがそんなに苦でない人もいるし、非常に強いストレスを受ける人もいる。イジメやハラスメントのように本来あってはならないとされていることは、それがストレスになることも分かりやすい。でも、当たり前とされている日常の中でストレスを受けても、それが当たり前でない世界を知らなければ、自分が何からストレスを受けているのかを意識しにくいのではないか。

 

 こんなこともあった。「なんかわからんけど、教室でいると疲れる」と言っている中学生がいた。一緒に電車で小旅行にでかけたとき、はじめは楽しくおしゃべりをしていたのだが、車内が混み合ってくるにつれて、「だめだ、疲れてきたわ」と言い出した。よく聞くと、人の動きがすべて目に入ってきて、目が疲れてくるのだという。自分が関心を向けているものだけを選択して見るということが、彼には苦手なようだ。そんなにたくさんの情報が入ってきたら、さぞかし疲れるだろう。話を聞いていて、僕も疲れた気分になった。教室も、人が多いから疲れる。これは僕にとってはちょっとした発見だったのだが、彼にとっては当たり前のことであり、言葉で説明することは難しかったろうと思う。

 

 よく考えてみると、子どもが学校に行けない理由を説明できないのは、そんなに特別なことでもないという気もしてくる。例えばだが、勉強をやりたくない理由を説明できる子どもがどれだけいるだろうか。大人も、とにかく勉強は頑張るしかないのだからと、やりたくない理由などに関心を持たないことが多い。子どもが感じている違和感を言葉で説明することを励ますのではなく、むしろ、子どもの声を抑えてきたともいえる。多くの子どもは、もやもやと掴みどころがない自分の気持ちを見つめて言葉にするという体験を積んできていないように思う。頑張れる間は気持ちを丁寧に聞かず、頑張りがきかなくなった途端、理由の説明を求めても、そこには無理があるのではないか。

 

 学校に行けなくなった理由を説明できない人もいるが、「〇〇が原因です」と自分から説明してくれる人もいる。その場合も、長く付き合っていくと、本当にそうだったんだなあと思うこともあるし、単純な言葉では全く言い尽くされていなかったと気づくこともある。いずれにせよ、その人は学校では生き生きとできなかったのだ。僕たちが一番考えなければならないのは、どうすればその人は生き生きとできるか、ということだろう。

 

 

“みんな”とは?

 子どもが学校に行けなくなると、多くの親は不安を感じる。学校に行かないために人間関係が希薄になることを心配する人もいるし、進路のことを心配する人もいる。不安の中身は色々あるだろうが、突き詰めると、みんなが行っている学校に行っていない、みんなと違う、ということ自体が、不安の根っこにあるのではないか。

 

 自分の子どもだけみんなと違う、と感じてしまうと、親として安心できないかもしれない。それは、学校に行っている多くの人が同じに見えているということでもあるかもしれない。現実には、同じように学校生活を送っているように見えても、学校でいい時間を過ごしている人がいる一方で、授業なんて何も頭に入っていない人もいる。友達と仲良さそうに振る舞っているだけの人もいる。学校という場に強い違和感を持っている人もいる。内面まで見れば、みんなが同じなんてことはない。

 

 とはいえ、自分だけみんなと違うと思うと、なんだか肩身が狭いような気持ちになる。そういう体験は僕にもあるし、多くの人にあることだと思う。あるいは、自分のまわりにみんなと同じようにできない人がいるとき、それを個人の違いとして自然に受け流すことができない。これも、多くの人が体験しているのではないか。

 

 “みんな”という言葉は、不思議な力を持っている。大人が子どもに何かをさせようとするとき、「みんなやっている」という言葉で説得する(だから、子どもも、大人から行為をとがめられたとき「みんなやっている」と言い訳する)。僕たちの中には、個人の違いを素通りして、人を一括りに“みんな”と一般化する見方が根を張ってしまっているのだろう。そして、”みんなやっている”ことをできない子どもは責められる。こうやって、小さいときから、“みんな”から外れたらダメ、という思い込みが強化されていく。これが、イジメや差別の温床にもなっている。

 

 僕は、教員をやる中で多様な子ども達に出会うことができた、と思っていた。でも、学校の外で子どもたちと出会うようになって、それまで僕に見えていた多様性が狭かったことに気づいた。子どもが仲間内にしか見せない面はあるし、僕の感性が鈍かったということもあるが、それだけではない。まず、学校には、一定の枠の中に入る人だけが集まっている(不登校で学校にいない人がいるし、“障害”があることではじめから除外されている人もいる。学校ごとの学力差や地域差もある)。そのこととも繋がっているが、そこに集まっている子どもの内面の多様性も表面化されにくい。学校は“みんな”が大きな力を持った場であり、 “みんな”と異質な面を安心してさらけ出せない空気がある。

 

 今の学校は、個人の違いを踏まえずに“みんな”を同じ方向に向かせようとし過ぎていないか。それが、個人の違いを見えにくくさせているし、子どもが自分らしさを発揮するのを妨げている。そして、“みんな”から外れた人を孤立させてもいる。教育の中では、むしろ、もっと意識的に、自分と人がどのように違うのかに気づいていくようにすべきだろう。違いにちゃんと向き合っていけば、自分と人とは意外に通じる部分があることにも気づいていくと思う。